▼起業家File.053 貝谷嘉洋さん  NPO法人バリアフリー協会 代表理事


 

障がい者発の国民的音楽フェスティバル、音楽を通じて障がい者の社会参画を実現

1970年岐阜市出身。生まれつき筋ジストロフィーをもち、14歳から車椅子全面介助の生活に。関西学院大学商学部卒業後、単身米国バークレイに渡り自立生活を始める。1995年カリフォルニア大学バークレイ校「ゴールドマン公共政策大学院」に入学し’99年行政学修士取得。また在学中にジョイスティック車で54日間全米横断成功やダイビングにも果敢に挑戦。帰国後上智大学後期博士課程修了。2001年NPO法人バリアフリー協会を設立。障がいをもつミュージシャンの音楽コンテスト「ゴールドコンサート」を2003年から今年で13回目。また日本初の障がい者主催の本格的な音楽イベント「GCグランドフェスティバル2015」を開催(1200名参加)し、マスコミで大きな話題に。障がい者の地位を根本的に向上させたい‼と奮闘中。


▲高校時代の父とのツーショット写真
▲高校時代の父とのツーショット写真

●幼少~大学時代―

難病「筋ジストロフィー」でも両親はあくまで普通校に拘った‼
家族や友人に支えられながら、自立への道を模索し続けた。

 

1970年岐阜市生まれ。小学校低学年の頃一番好きだったのはグランドで遊ぶことでした。筋力が低下していたので、その頃夢中になっていたフットベースでヒットを打ちたくて、朝6時に家を出発して学校に一番乗りしてました。またクラス内でのソフトボール大会や社会見学(近くの愛知用水など)の企画を積極的に提案して実行する活発な少年でした。

 

岐阜大学付属小学校4年生(10歳)のとき、両親と筋ジストロフィーの専門病院に検査へ。精神科医の父は、既に病気への疑いと知識を持っており、専門医から「デュシェンヌ型の筋ジストロフィー」と診断されましたが、両親は私にハッキリとした告知はせず、それが難病で将来車椅子生活を強いられ、20代で命を落とす可能性があると聞いたのは成人になる頃でした。中学進学は先生方からの養護学校入学への強い提案の中を、両親の説得努力と原則介助は家族が負担するという条件付きで、何とか付属中学へ入学できることになりました。

中学に入ると病状は目に見えて進行し、学校の椅子やトイレの便座から起ちあがることができなくなり、いつも介助が必要になりました。そして中2の2学期からは全面的に車椅子生活に、ただ自分にとっては移動範囲が増えて楽になり、そのこと自体にほとんどショックはありませんでした。学校側の原則介助禁止の中でも、親しい先生の励ましや友人たちの介助に支えられながら通学や学内移動など、とても恵まれた環境だったと思います。

高校進学は、両親の必死の懇願むなしく、県教育委員会から普通高校への入学を拒否され、養護学校を勧められました。しかし世の中には心の広い方がいらっしゃるもので、県立羽島北高校の校長先生が、教育委員会の反対を押し切って、入学試験の選考過程で「障がいは考慮に入れない」と約束して頂けました。私の学力は県内どの高校でも入れる成績でしたので、試験にも無事合格、奇跡的に普通高校へ入学が叶ったのです。ただ高校では、知り合いも少ない環境の中で一番の友人との些細な喧嘩から登校拒否に…。「あれだけ明るく活動的な私がどうしてしまったのか?」葛藤と苦悩の毎日が続き、両親に反抗的な態度をとったり、ゲームにハマって昼夜逆転の生活へ。「大学に進学して頭の堅い教育委員会の方々をいつか見返したい」という負けず嫌いの性格と、介助に協力的な少数のクラスメイトや中学時代の旧友の支え、両親の熱心さのお陰で、出席日数ギリギリながら卒業できました。

▲関西学院大学時代のサークル仲間
▲関西学院大学時代のサークル仲間

大学の障がい者受け入れについて調べてみると、重度の障がい者は大学に行かないことを前提にデザインされていて、中部地方の大学は、キャンパス内の段差など車椅子での移動がほとんど困難な状態でした。関西学院大学を知ったキッカケは、同大学講師で同じ病気をもつ吉川さんとの出会いが全てです。新聞で知った両親は宝塚のご自宅まで一緒に面会に行き、「関西学院大学は学内がバリアフリー設計で全国一、車いすの障がい者にも理解があると思います」と直接アドバイスを頂けたのです。そして商学部に合格し、母と妹3人一緒に神戸へ引っ越すことに。

大学では電動車椅子に変えたことで、行動範囲も拡がり歩けなくなって依頼初めて自分で買い物をするという愉しみを得ました。3つのサークルに卒業まで所属し、活動を通して色々な友人、先輩、後輩との出会いがあり、新しい環境でそれなりに刺激的な大学生活でした。しかしその一方で、パソコンゲームや暴飲暴食など現実逃避も進み、徐々に大学でも家でも居場所が無くなってきたのです。そして大学3年のある日、不意に鈍器で突かれた感覚の後、「イテ―!痛い‼」過去にも何度か経験しましたが、強さと継続性が全く違う激痛でした。精密検査の結果「肥大性心不全」と診断、「筋ジストロフィー専門施設」へ即入院することに…。

 

 


▲憧れのバークレーの街を姉と散歩
▲憧れのバークレーの街を姉と散歩

●米国留学時代

障がい者自立環境が整うバークレイへの憧れが現実に‼

バークレイ校合格、ダイビングや車で全米1周にも挑戦。

 
1週間の入院でもう耐えられなくなりました。食事、排便などベルトコンベアのような生活に、「俺はここにいたらダメになる。早く大学に戻りたい」と母に涙の懇願をして通院生活に。それからは「筋ジスであっても、楽しく幸せに生きられることを身をもって証明してやろう‼」とだんだんと生きることに対して積極的になってきました。

1993年2つ上の姉と海外旅行の話で盛り上がり、「障がい者にとって自立環境が整っている素晴らしい街バークレイ」へ行くことに。全日程3週間、障がい者でも力強く生きていることに感銘を受け、日本で障がい者として制約された生活を送ってきた私は、太陽の恵みを受けた自由の王国にすっかり虜になり、バークレイでの自立生活を本気で考えるようになりました。卒業後の選択肢は「公認会計士」「税理士」などありましたが「バークレイで自立生活をしながら障がい者問題を研究する」道を選んだのです。「あと何年生きられるか判らないけど、アメリカで自分の実力を試してみたい‼後悔だけはしたくない」という想いでした。

▲1999年大学院バークレイ校行政学修士修了式
▲1999年大学院バークレイ校行政学修士修了式

バークレイの自立生活は語学学校に通いながらスタートして、パーソナル・アシスタント(有料介助人)や多くの友人に支えられながら、約1年でカリフォルニア大学バークレイ校のゴールドマン公共政策大学院に合格。障がい者受け入れについて、日本の大学は「認めない訳ではないが、そちらで勝手にどうぞ」という態度ですが、バークレイには障がいをもつ学生800名の生活支援する専門部署や学生寮まで利用できる体制が整っていました。
大学院では、英語でのレポート提出、ディスカッション、リーディング(毎日100Pぐらいの資料読み)など厳しく寝る間もない生活でしたが、実学重視の授業はとても充実して、日米の障がい者の自立生活環境について深く研究することができました。


大学院の生活に慣れて来た頃、新たに挑戦しようと思ったのがダイビングです、友人の勧めもあり室内プールでのレッスンや学科を受け資格まで取得したのです。そして本番は暖かい沖縄の海に潜ることに…。
海底に達すると熱帯魚が珊瑚の周りを戯れていました。身体が軽くなり時間がゆっくりと進み、筋ジストロフィーであることを忘れるほどに…。海の中で死の可能性に素直に向き合い「楽しく生きたい‼」という想いが一層強くなりました。著書「魚になれた日」刊行。

次に挑戦したのが、車の運転です、日本にいる時は想像さえできなかったことが、ジョイスティック車の技術進歩のお陰で現実になったのです。公道やハイウェイでの走行などを体験し様々な特訓の末に、なんと全米一周16000キロをジョイスティック車走行するまでになりました。この模様はNHK番組でも放送され、「ジョイスティック車で大陸を駆ける〜障がいあっても移動しやすい未来を」刊行。


▲最も敬愛するエーベルト・クロー氏と
▲最も敬愛するエーベルト・クロー氏と

●起業のキッカケ、決断、起業―

クロー氏との出会いから「日本版グリーンコンサート構想」
2003年5月5日、記念すべき第1回ゴールドコンサート開催。

 

いつからか覚えていませんが、気になる方がいらっしゃいました、エーベルト・クロー氏です。デンマーク筋ジストロフィ―協会の創始者で、デンマークの「24時間介助制度」を勝ち取った方です。私は思い立ったら止められない性分で、2週間のデンマーク旅行をすぐに決めました。バークレー入学直前のことです。36時間3つのフライトを乗り継ぎ、やっとの想いでデンマーク・オーフスへ到着し、憧れのクロー氏とディナー。3交替介助や美味しいお酒と料理、そして現地の小学校見学など、とても新鮮で大きな勇気を頂きました。

▲デンマーク「グリーンコンサート」の会場
▲デンマーク「グリーンコンサート」の会場

そして愉しみにしていた「グリーンコンサート」に参加。グリーンコンサートとは、毎年夏にデンマーク筋ジス協会が中心となって巡業開催される資金集めの野外コンサートです。大勢の若者ボランティアが手伝い、有名ミュージシャンが演奏する20万人規模のイベント。自立生活をする重度の筋ジス者と会う中で「ホントの心のゆとり、生活の豊かさがこの国にはある」と実感することができました。それと同時に、この視察で日本でも同じようなイベントを開催したい、と決意したのです。

2000年夏にアメリカ留学から帰国し、日本で「第1回ゴールドコンサート」を開催する2003年までには3年の歳月がかかりました。その間、ジョイスティック車の普及、本邦初の新規運転免許取得、これらの活動を記した著書の執筆、NPO法人日本バリアフリー協会の設立、介護事業の立ち上げなど、夢の第一歩に向けて基盤整備を進めました。最初のイベント名に「第1回」と入れた訳は、すでにその時継続的に開催することを決めていたからです。数万人規模のデンマークのグリーンコンサートが目標なのですから、私の中では当然のことでした。

グリーンコンサートの開催目的は、主催者のデンマーク筋ジストロフィー協会が活動資金を集めるためなので、「日本版コンサートでも同じようにファンドレイズをしたいんです!」と周りの関係者にしきりに吹聴しましたが、反応はいまいち。ほとんどの方は「とにかく音楽イベントを通してバリアフリーな社会にしたいのです」と言うと、ちょっとわかったような顔をしますが、それでもいまいち。そこで「コンテストにしたら面白いんじゃないの?」というアイデアが生まれ、障がい者が出場するコンテストなら、目的も内容もわかりやすいので、コンテスト形式を採用することに…。

 

 早速インターネットで検索してみると、障がいを持つミュージシャンは全国にいるものです。「これはいける」と思いました。また副題は、オーディション「探せ!21世紀のスティービーワンダー」と、意欲的なものとしました。会場も188名収容のバリアフリーの千代田区内幸町ホールが、2003年5月5日の子供の日というすばらしい日程で取れました。こうして改めて周りに呼びかけると、キーパーソンを紹介してくださる有力者の方々、有志の実行委員の皆さま、民間の助成団体や協賛企業様、そして出場希望者など大変多くの方々に関わって頂いたお陰で、大成功を修めることができたのです。


▲第1回ゴールドコンサート会場(2003.5.5)
▲第1回ゴールドコンサート会場(2003.5.5)

●起業後のエピソード―

プロを目指す障がいをもつアーティストの祭典。

実績を重ねるごとに全国での予選会開催に規模拡大‼

 

 

私は音楽イベントにおいてはズブの素人でした、本来は音楽イベント企画運営の専門学校で一通り勉強するべきだったかもしれませんが、「とにかく第1回を開催しなければ、何も始まらない」という熱意が先行していました。すると不思議なもので、私の足りない部分を補ってくれる方々が実行委員として集まって来てくださり、特に音響や照明などの舞台演出についてはほとんど知識がなく本当に助けられました。

 

第1回ゴールドコンサート当日は、それまでの人生の中で最も充足感のある日となりました。まず、全国から集まった障がいを持つ仲間たちとの交流、自分(筋ジストロフィー)とは違う知的、視覚、聴覚などの障がいを持っている人々と直接触れ合えたのはとても新鮮でした。この日のために稽古して腕を磨いたミュージシャンの演奏には本当に感動しました。次に、座席の溢れんばかりの観客の皆さんが拍手喝采をしている姿を見て、心から喜びがこみあげてきました。そして、ボランティアや協力価格で手伝ってくださったスタッフの皆さんが、私のような未熟なリーダーに最後までついてきてくださり、感謝の極みでした。また第1回ゴールドコンサートにおいて顕著だったのは、マスメディアの取り上げが他のどの回よりも質・量ともに充実していたことです。複数の大手新聞社やNHKなど影響力のあるメディアに大きく採り上げて頂けました。


▲GCグランドフェスティバル実行委員会
▲GCグランドフェスティバル実行委員会

●今後の夢、目標‼

日本初の障がい者が主催する音楽イベントを本格開催‼

「日本版グリーンコンサート構想」から15年、継続は力なり。

 

アメリカには障がい者グループの生活自立運動の成果として「障がいをもつアメリカ人法(ADA:Americans with Disabilities Act)」が1990年に制定されている。教育、雇用、消費において障がい者差別を包括的に禁止する法律です。公有の施設はもちろん、公共の場では民間の施設においても、車いすのためのバリアフリー、車いす用のトイレの設置を義務付けている。また文字放送や職場にスロープ設置など「合理的な配慮」も必須で、これは障がい者への機会が均等になると、障がい者もお金をもうけ、税金を収め、施設などに費用が掛からなくなるという政策的判断で、決して福祉政策ではないのです。日本でも「障がい者差別解消法(2016年4月施行)」がようやく法制化されましたが、米国や北欧に比べるとまだまだ遅れています。

▲GCグランドフェスティバル会場
▲GCグランドフェスティバル会場

「日本版グリーンコンサート構想」から14年目の2013年12月に日本初の障がい者が主催するエンタテインメントイベント「グランドフェスティバルゼロ」を、そして2015年4月に「GCグランドフェスティバル」を本格開催することができました。実行委員会は、竹中ナミさん(社会福祉法人プロップ・ステーション 理事長)、田原総一郎さん(ジャーナリスト評論家)、野田聖子さん(衆議院議員、ゴールドコンサート組織委員会会長)、板東眞理子さん(昭和女子大学学長)、 藤井克徳さん(日本障害フォーラム幹事会議長)、湯川れい子さん(音楽評論家作詞家)など各界の著名な皆さまの強力な賛同を得てスタートしました。出演アーティストも、クレイジーケンバンドさんや島袋寛子さん(元SPEED)ほか豪華アーティストの方々のご協力を頂き、1200名の参加者で大盛況となりました。


「日本の障がい者の明るい未来、社会参画の実現」には、まだまだ道半ばですが、今後も障がい者の様々な活動を通じて目標実現を目指して参りますので、皆さまの暖かいご支援、ご協力を頂けますと幸いです。200キロもある電動車いすに乗っていると、近寄りがたいイメージがあるようですが、いつでもお気軽に声を掛けてください。



▼貝谷嘉洋さんの座右の銘 
人の行く裏に道あり花の山

人と同じことをやっていてはライバルばかりで大変。誰もやらないようなことを大規模に思い切ってやりたい。

▶趣味:熱帯魚飼育、旅行、囲碁(3段)
▶最近感動した映画:「
セントオブウーマン

▶尊敬する人:両親、エーバルド・クロー氏
▶最近熱中していること:海外ドラマ「ブラックリスト」
▶ホっとする時:
ウィスキーを一人で飲むとき




〇NPO法人バリアフリー協会ホームページ  
http://www.npojba.org/
〇「ゴールドコンサート」サイト  
http://gc.npojba.org/

○「GCグランドフェスティバル」サイト
http://www.gcgf.jp/
〇貝谷嘉洋FB個人ID
https://www.facebook.com/profile.php?id=100008658671545&fref=ts

←ジョイスティック車で全米一周16000キロの軌跡(クリック拡大)



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