50歳子育て卒業を機に「テーブル茶道教室」で日本文化を世界へ発信‼
1961年東京都浅草生まれ。小中高は12年間学級委員、青山学院高等部では軟式テニス部キャプテン、大学で全国大会団体戦3位に。富士通本社総務部を寿退社後、専業主婦として3人の子育てをしながらPTA活動を。50歳子育て卒業を機に「テーブル茶道」普及を目指して起業。2014年創業補助金で秋葉原にサロンをOPEN、2015年「起業実現プロジェクト第1回女性チャレンジ制度」グランプリを受賞し、一般社団法人テーブル茶道協会設立。2017年「銀座セカンドライフビジネスコンテスト」最優秀賞受賞。「日本初のテーブル茶道サロンの全国展開」「外国人向け教室の開催や海外展開」…など夢は膨らみ、全国奔走中。
●幼少~大学時代―
小中高の12年間ずっと学級委員を務めた真面目な優等生‼
高校で軟式テニス部キャプテンを務め、大学では全国大会団体戦3位に‼
1961年東京浅草生まれ。3人兄弟の長女。父は初期の電子計算機を組み立てた大学の研究室におりました。今は電卓として溢れていますが、当時は箪笥三竿の大きさがあったそうです。子供の頃は、父がトランプや家庭麻雀で遊んでくれました。毎週月曜夜は「算数の日」として、父が必ず教えてくれたお陰で、中学受験の時は算数では解けない問題がないほどになっていました。その頃家は、祖父母、父母、父の弟が3人、住み込み店員の方が2人、そして私を含めた子供3人の大家族でしたので、「嫁」の立場である母は家事や仕事にとても忙しくしていたことを覚えています。そんな中でも節目節目の年中行事はかかさずにとり行っておりましたので、今でもその習慣は自分の中に生きており、それはとても有難かったと思います。
父の兄弟(7人)は集まる機会が多く、またお客さんも多い家でしたので、そんな日は朝から掃除やお料理などの準備に追われ、私も何十人ものお箸やお皿を並べたり、お料理を運んだりなどの手伝いをさせられました。折につけ、私は母に叱られておりましたが、今考えると忙しい中でたくさんの家事をこなさなければならず、いたしかたなかったのだと思います。特に着物のたたみ方にはとても厳しく、「一度ついた折り目は二度と取れないから、シワを作らないように、きちんとたたみなさい!」と、何度もたたみ直させられました。今でも着物をたたむ時には、亡き母の声が聞こえるようです。
母がとても忙しかったので、妹や弟がしでかしたことも、長女である私の責任だと母から叱られました。そのために、妹や弟に高圧的な態度をとっていたと思います。母は「女は外に出て恥ずかしくないように…」と私と妹にはとても厳しかったのですが、長男である弟にはとても甘く、それをいつも不公平に思っていました。ただ弟は小さい頃に何度も手術をしたこともあって、それが可哀想で甘くなっていたのかもしれません。
幼い頃の私の性格は大人しくて真面目だったと思います。家では、おままごとやリカちゃん人形で遊んだり、TVで流行っていたロンパールームごっこをしたり…。家の前では、近所の友達と蝋石で地面に絵を描いたり、カラー竹馬や缶蹴りなどで遊んだりもしました。
小学校では6年間ずっと学級委員でした。母が厳しくて優等生で居なければならなかったのが、身についてしまったのでしょう(笑。毎年ドッジボールのクラス対抗大会があり、それに向けて毎日みんなで練習をした記憶は懐かしい思い出です。習い事は、ピアノ、日本舞踊、そろばん、お絵かき、習字、ラボ英語学習…など、一通りやっていましたが、なんと何も身についておりません(汗。介護や商売で両親が私を旅行などに連れていけないからと、YMCAに入会させてくれ、夏はキャンプ、冬はスキー合宿に行っておりました。4年からは中学受験のために地元の時習塾に通い始めると、そこは学校以上に楽しく、先生も生徒もとても仲が良くて、とても心地の良い居場所になりました。
受験は第一志望の女子学院と、ダメ元で受けた青山学院にも合格。青学の方が入学金や学費が倍以上高かったので、最初は女子学院にしようということになったのですが、塾の先生の助言もあり、両親と何度も話し合って青学への進学を決めました。今ではそれがとても有難たかったなぁと思います。
中学時代も3年間ずっとHR委員(学級委員)でした。部活は白いスコートを履いて、テニスコートで白球を追いかけている先輩の姿に魅せられて、軟式テニス部に入部。当時の私は硬式と軟式の違いもわからないレベルでしたが、軟式の方の希望者が少なかったことで軟式を選んだのです(笑。また中学からは母の薦めで、近所の宗徧流茶道教室に通い始めました。
高校はエスカレータ式に青山学院高等部へ、高校3年間もずっとHR委員(学級委員)でした(苦笑。2年からは軟式テニス部ではキャプテンを務め、練習も上下関係がとても厳しかったのですが、充実した部活ができたと思います。ただ告白してもらえる事はたまにあったものの、好きになれる男子が全然現れず、恋愛らしい経験がないことが残念だったなぁ…と(笑。
大学もエスカレータ式に青山学院大学へ。小さい頃からずっと先生になりたくて、教育学部を希望していたのですが、両親が「青学だったら、絶対に英米文学科! 英米文学科に行かないんだったら、学費を出しません‼」と言うので、泣く泣く「文学部英米文学科」へ進路変更。ゼミではシェークスピア劇を学び、韻を踏むおもしろさだったり、下品さだったり、いろいろな発見がありました。部活も体育会軟式テニス部に入部、練習も上下関係もこの世のものとは思えないほどの厳しさでした。その甲斐あって4年生の時にインターカレッジ(全日本大会)団体戦3位となりました。私はレギュラーではなく主務という役でマネジメントをしておりましたが、その時の経験はのちにとても役立つものとなりました。教育学部は断念したものの英語の教職免許を取得、教育実習は下町の少し荒れた生徒もいる中学校でしたが、とても楽しかったです。
大学3年生の時、軟式テニス部の前部長が富士通の会長とお知り合いで、私を推薦してくださいましたので、幸運なことに、就活ではあまり苦労することなく富士通株式会社に入社することができました。まだ教員になりたいという夢は捨てきれませんでしたが、当時は校内暴力などで学校が荒れていた時代で、母が「オールドミスになってまで命を掛けるのなら、教員になってもいいけれど、富士通に行った方がいいのではないか…」と言うので、それに従いました。
●社会人時代
バブル時代の富士通本社総務部、優しい先輩ばかりで…。
専業主婦として3人の子育ての傍らで「PTA活動」に注力。
富士通本社総務部庶務課に配属され接待費を担当。最初の仕事は、富士通のロゴが入ったボールペンなどの事務用品や菓子、ICチップ入りのネクタイピンなどの発注とそれを全国営業所や本社営業に配布することでした。新人ながらも、事務用品や製菓などの協力会社から接待を受ける役得(?)も経験しました(笑。その後、庶務課長の秘書的な仕事や庶務課全体のマネージメントをする書記という仕事に異動。電話交換、メール室、受付、役員運転手も全部庶務課に属していましたので、各部署をまわっては、お菓子やお茶をごちそうになるという役得も…(笑。
本社総務部というのは会社の要であり、社内の様々な情報が集まって来ますので、とても勉強になりました。本社の大掛かりな引越や、社葬なども経験、丸の内交通安全パレードのイベントでは、一日丸の内警察署所長である細川たかしさんのオープンカーの後ろを「やさしさとおもいやりのある運転を」と書いた旗をもって行進したことも…。総務部の先輩方がとても聡明で優しかったので、かなり居心地のよい職場でした。今でも年に一回庶務課OGで集まっております。
1985年24歳の時、父が突然倒れ、母に「この先、父がどうなるかわからないので早く結婚して。」と言われて、当時好意を持って下さっていた上司と結婚し、富士通を退社。その年に、日本最大級の百貨店横浜そごうが開店し、実家が出店したので、暫くはそちらの手伝いをすることに…。そして長男が生まれ、長女が生まれる時に実家も退社し、専業主婦となりました。
その後3人目の子供が生まれ、夢中で子育てをしてまいりました。自立し、自分で考えることのできる子供に育てたかったので、転んでも自分の力で立ち上がるまで手を貸しませんでした。ボタンを1つ掛け違えてはめはじめても、途中で「違っている」と声をかけてしまうと、また掛け違えることになるので、最後にボタンもしくは穴が余って、「あ、違ってた。」と自分で気づくまでじっと見守って我慢しました。自分で気づくと次は間違わないようになるのです。これは、現在のインストラクターや講師の育成にも役立っていると思います。転勤をした時に、学校や幼稚園に馴染めない子を見ているのは辛かったですね。自分ではどうすることもできないことはとても辛いです。
幼稚園のPTA役員をお引き受けした時のことです。私はこれまでの学級委員や部活のキャプテンなどの経験から、「私が頑張れば、皆がついてくる」というやり方をしてしまったのですが、それを好ましく思わないお母さまもいらして、私を応援してくださるグループとそうではないグループとに分かれてしまいました。そこで大いに学んだことは、本当のリーダーというものは、自分だけが頑張るのではなく、『人を活かす』ことができる人こそがリーダーであるということでした。その学びから、小学校ではとてもよいPTAのチーム作りをすることができました。さらに本部副会長の時には他の役員の方々と協力して「PTAマニュアル」創りに取り組むなど、楽しく充実したPTA活動だったと思います。この時の経験も、現在のテーブル茶道教室のインストラクターや講師講座に活きていると思います。
●起業のキッカケ、起業決断の瞬間―
子育て卒業からの起業、後半人生を「テーブル茶道」普及へ‼
創業補助金の採択資金で、思い切って秋葉原にサロンオープン。
品川区教育委員会の(40歳以上)非常勤職員の募集に応募し採用。公立中学校事務職として、給食費と教材費を担当いたしました。当時は給食費の未納が取り沙汰された時代で、私の勤めた中学校も3分の1の生徒が給食費未納でした。それが3年間で未納ゼロになったり、非常勤職員のためのマニュアルを作って新人職員の方に喜んで頂いたりした事が嬉しくて、これが私の天職かと思いました。ところが、今度は母が急死し、父の介護をしなければならなくなり、後ろ髪を引かれる思いで教育委員会を退職いたしました。
父の介護で実家に行くようになりましたので、実家の事務を手伝い、子育てで休止していた茶道のお稽古を再開したのもこの頃です。2012年に介護していた父を見送り、2013年に3人目の子どもが大学卒業で子育て終了。このまま何もしないで終わるのは人生もったいないと思い、今後は自分の好きなことで社会に貢献していくことをしたいと考え、テーブル茶道で起業いたしました。
この頃、グアムでスカイダイビングをした時に、自分の命について考えました。「今の私は社会的に何の価値もない、ちっぽけな人間だ。」と気づき、このまま終わるのはイヤだなと思いました。そして、自分の過去を振り返ったら、茶道だったのです。私が今までで一番長く続いているものなので、それで何かやりたいと…。思いついたものの、400年も続く多くの流派がある中で、テーブル席での茶道をやっていいものかと思い、武蔵小山創業支援センターに相談に行きました。そこで背中を押していただき、税務署に届け出を出したのが私の起業の第1歩でした。
私は茶道の先生になるために必要なお茶室も持っていませんし、季節ごとの道具揃えもありません。そんな中で私ができることは何かと考えたところ、日常いつでもどこでも楽しめる(テーブル)茶道だったのです。きっと私のように、茶道が好きで先生になりたくてもなれない方もたくさんいらっしゃるのではないかと思いました。
初めは、「茶道」と名乗ってよいのかどうか、「茶道」に一線引かなくてはいけないのではないかと思い、「おもてなし茶の湯」という名で始めました。10ヶ月ワークショップを続けた中で、畳でもテーブルでも伝わっていくもの、そして自己対峙することは同じものだと思い、11ヶ月目に初めて「テーブル茶道」と名乗りました。
創業補助金の採択によって、秋葉原にサロンを開き、テーブル茶道教室、インストラクターと講師の育成を始めました。2015年日本起業アイディア実現プロジェクト「女性チャレンジ制度」のグランプリを受賞して、賞金200万円をいただきました。賞金をいただくために法人化しなければなりませんでしたので「一般社団法人日本テーブル茶道協会」を設立いたしました。
茶道には、日本人の自然とともに暮らす知恵、社交の術、美しい日本語から潔い精神性まで、私たちの理想とする形が残されています。ところが、畳での茶道はいろいろなしきたりも多く、入りづらい世界でもあります。そこで、普通の人が気軽に入ることができて、簡単に楽しめるテーブル茶道を始めました。テーブル茶道を通じて、和文化の伝承と人と人とが真の絆をもって繋がる場の提供を目指しております。そして、全国にテーブル茶道が広まることで、「ちょっとお茶点てるね!」と言って、気軽に「お抹茶」を楽しめる方が増えていくようになることが、私の信じている未来です。
●起業後のエピソード
教室運営、企画、集客、事務…忙しさの中にも大きな充実感が…。
電子書籍「創業補助金でテーブル茶道@秋葉原」発刊‼
ワークショップ、教室運営、営業、事務等々、全部一人でやらなくてはならないので、寝る暇もなく大変ですが、こんな楽しいことはありません。ワークショップ、教室を通して、多くの方々に喜んで頂ける価値ある起業だったと思います。また、インストラクター、講師育成事業で、「先生」と呼ばれて活動していく方が増えていくことにも喜びを感じています。
白楽にある友人のカフェで月に一度テーブル茶道のワークショップを開かせていただいておりました。そこに来てくださった方が、「テーブル茶道教室にも通いたいけれど、秋葉原は遠い。」とおっしゃるのを聞き、いつか横浜にも教室を開きたいと思っておりましたが、女性チャレンジ制度の賞金で叶いました。このタイミングで、「神林さんの知り合いで、横浜に部屋を探している人いない?」と講師の看板を作ってくださっている方に聞かれ、「私!!!」と即答で借りてしまいました(笑。「身体は食べ物で作られる。心は聞いた言葉で作られる。未来は自分が話した言葉で作られる(北原照久)。」に従い、自分の未来は言葉に出して伝えています。
通販学校で電子書籍のお話しを聞きました。その先生の電子書籍のセミナーに参加、私でも本が出せるということで挑戦させていただきました。ただ、その話を頂いた時は非常に忙しい時期で、本を書くのには時間がないと思ったのですが、「書いた日が記録として残るので、テーブル茶道の日本で初めての立案者として証拠になる」と先生がおっしゃるので、「なるほど‼」と思い、移動する電車の中でスマホで原稿を書き完成させました。この本を読んで茶道教室に入ってくださる生徒さんもいらして、とてもうれしいです。
内容は、50歳を過ぎて普通の主婦だった私が、起業してからいろいろな学びと出会いによって、創業補助金を足掛かりに、秋葉原でサロンを開くまでのお話しです。専門家の方が補助金の取説をされている本はたくさんありますが、補助金を受けて、それを活用していく側のお話は、これから補助金申請を考えていらっしゃる方の参考になるのではないでしょうか。また、これから新しく何かを始めたい方、第二の人生を模索しておられる方にヒントとなるようなエッセンスも織り込まれていると思います。
「創業補助金でテーブル茶道教室@秋葉原」
50歳からのブラディング 神林浩子著
【目 次】
はじめに
第一章 「如月」飛行
・グアムスカイダイビング
・私の価値はいかほど?
第二章 「葉月」起業したらまずやること
・普通の主婦でした
・何もわからないので、まずは武蔵小山創業支援センターへ
・え?私が経営の勉強?
第三章 「長月」2020年オリンピックが東京開催に!
・「おもてなし茶の湯」という名で始めたら、「おもてなし」がブレイク
・お茶会が台風でお流れ
・茶道の真空マーケット
第四章 「霜月」赤毛のアンの家
・プライベートサロンの会員となり、住所を青山に
・山梨県北杜市で「おもてなし茶の湯」開催
・階段から落ちて血だらけ
第五章 「師走」東京ミッドタウンレジデンス
・超ネット通販専門学校
・創業補助金
第六章 「卯月」サロン賃貸契約
・あぁ、サロンを借りてしまった
・初IKEA
・金欠病でいよいよ信用金庫からお金を借りる
第七章 「皐月」サロンオープン
・主人入院
・サロンオープンセレモニー
第八章 「文月」過去未来
・同級生からのメール
・過去未来
あとがき
茶道には、焼き物、道具、書、文化、歴史、和菓子、精神性等々、日本文化がギュッと凝縮されております。しかしながら、茶道をたしなむ日本人はとても少なく、残念でなりません。そこには、茶道に対する敷居の高さなど、様々な要因があるように思います。そんな煩わしさを取り払い、流派から離れての気軽で簡単でより現代の生活様式にマッチしたカタチの「テーブル茶道」普及で起業し、多くの方に茶道の楽しさをお届けしたいと願っております。AmazonのKindle版(300円)で販売しておりますので、宜しければお読みください。
●今後の夢、目標‼
インストラクター30名、生徒数は100名突破し順調な船出。
外国人向けサロンやグローバル展開を目指したい‼
最初の1年は、ワークショップを開催しても参加者一人とかゼロ人とかで中止、などということもありました(汗。それが3年半で延べ約850名の方にご参加いただくまでに…(涙2014年5月に秋葉原サロンを開き、テーブル茶道教室を開講いたしました。いままで茶道教室にいらしてくださった生徒さんは約150名。インストラクター養成コースを修了されたインストラクターさんは約30名、講師養成コースを修了され現在活躍中の講師さんは9名になりました。
また2017年3月に銀座セカンドライフ様と西武信用金庫様共催で開催されました「セカンドライフビジネスプランコンテスト2017」においては、お陰様で最優秀賞を受賞(写真)することができました。
さらに2015年3月、香港ビクトリアンパークにて「テーブル茶道ワークショップ」を開催、同年10月NYセントラルパークにて開催など、海外展開も精力的に展開しています。2016年からは、京急百貨店やよみうり大手町などカルチャースクールへの講師受託もスタートしています。
今後は、「在日・訪日外国人向けワークショップの開講やサロンの開設」「個人サロン事業の法人化」「事務所開設」「サロン全国展開」…などなど挑戦してみたいことが沢山あります。
私の10年後の夢は?
・全国8都市に日本初の「テーブル茶道サロン」を開設
・外国人観光客をターゲットとした「和文化アミューズメント施設」の開設
・個人的には全国のおいしいお菓子を巡って、テーブル茶道行脚 などなど…。
最後に、このような機会を頂きましたこと、誠にありがとうございます。「めびうすのWA」はとても活気があって、実際に起業で成功している人がいっぱいいらして素晴らしいコミュニティだと思います。そんな起業家の皆さま方の情報からたくさん学ばせて頂けるものがあり、「めびうすカフェ♪」での交流をとても楽しみにております。また松延さんにお会いして、スゴイ人だと思いました。これほどまでに真剣に起業者を応援するものなのかと少し驚いています。
長い文章をお読みいただき有難うございました。
▼神林浩子さんの座右の銘
『確かな1歩ずつの積み重ねでしか遠くへは行けない(byイチロー)』
9年連続200本安打という歴史的な大記録を成し遂げたイチローは、初めはそんなに有名選手ではなかったと思いますが、努力を積み重ねて今に至ります。大記録も最初の1安打があり、それが積み重なっていくことで大記録となっていくのです。起業も、初めからガーンといくことはなく、お客さんが来なかったり、いらしても1人だったりという時もありましたが、この言葉を思い出し、自分を奮い立たせます。
〇一般社団法人テーブル茶道協会ホームページ
http://japantablesado.com/
〇有結-AYU-テーブル茶道教室ホームページ
http://ayuomotenashi.com/
○神林浩子さんFaceook個人アカウント
https://www.facebook.com/hiroko.kanbayashi
▼宜しければフェイスブックページに「いいね!」をお願いいたします!!