▼起業家File.062 小屋一雄さん ユーダイモニア マネジメント㈱代表取締役社長


 

ロックを愛し反骨精神旺盛な人財コンサルタント、新著「シニアの品格」も好評。

1966年東京品川区生まれ。大学時代にスペイン旅行、英国研修を体験し海外志向が高まる。日米仏の自動車メーカーや伊高級紳士服ブランドなどの企業でマーケティング担当を歴任。ギャラップ㈱では1995年に日本の創業メンバーとして参画。ポジティブ心理学に基づく各種診断ツール「ストレングス・ファインダー」を活用して、グローバル企業を中心にマネージャーのリーダーシップ開発や組織開発を行うコンサルティングに従事。2009年8月に起業「ユーダイモニア マネジメント㈱設立。こ れまでの経験を生かし、ポジティブ心理学をベースに、生き生きとした職場・人づくりのためのコンサルティングを行う。2016年「シニアの品格(小学館)」を上梓し全国で講演、コーチング活動に活躍中。


●幼少~大学時代―

小学生からロックに心酔、型に嵌るよりもっと自由に生きたい‼
音楽・文学・旅に明け暮れた青春時代、海外体験が大きな刺激に。

 

1966年東京品川区生まれ。姉2人の末っ子長男。父は大手メーカーの造船営業で、週末もゴルフなど仕事一筋のサラリーマン。シベリア抑留帰還の経験があり、自分には厳しい人でしたが、私にはとても優しい父でした。たまの休みに羽田空港見学に行ったりキャッチボールをしてくれた時などは、本当に嬉しく楽しかったことを覚えています。母は子供達に大きな愛情を注いでくれましたが怒るととても怖く、私もたまに叱られましたが、上の姉が怒られているのを見てビビッてました(笑。母は3人の子供には色々な習い事をさせ、才能を発見しようとしていたようです。幼い頃は、姉たちと遊ぶと、どうしても女の子化してしまう自分が嫌だったので、近くの鉄道架線下の隙間や神社に「秘密基地」を作り、そこで一人で妄想をしていました。また姉に手が掛かる時期だったので、私はよく近くの祖母の家に預けられ、祖母には甘やかされて育ったようです。

小学校時代は、草野球をしたり、サッカーのチームを作って友達と楽しく遊ぶ一方で、ピアノ、書道、お絵かき、水泳教室などに行かされました。しかしどのエリアでも才能は開花せず、ピアノに至っては、反抗して先生を泣かせ、あとで母に酷く叱られました。そして最後の望みを勉強に託したのか私は塾へ通わされることに…。学校の勉強は大したことはありませんでしたが、他の習い事よりも成果を上げ、特に国語の先生から賞賛され、私立中学を受験することになりました。しかし難関校を受検して失敗、公立中学へ。決して不幸な少年期ではありませんでしたが、何か鬱屈したものはあったようで、この頃に「一人でもっと自由に生きたい‼」という意識が芽生え始めていました。流行っていた「キッス」や「エアロスミス」などのロックバンドの音楽に出会い、その自由で反抗的なスタイルに魅せられ、やがてその源流であるビートルズに興味が移っていくことになるのです。

 

中学時代、一度はバレー部に入部しましたが1年で退部。お小遣いがたまると友達と「ハンター」という中古レコード屋に走り、ビートルズやローリング・ストーンズのレコードばかりを買っていました。友達も必然的にロックの話ができる奴と仲良くなりました。学校ではよくイタズラもしました。体罰ばかり加えるむかつく教師がいて、古くなった木の椅子を破壊し、その板にだるまストーブに突っ込んだ鉄の棒で「○○の墓」とその教師の名を刻印し黒板の上に飾り、仲間のウケを狙いました。ところが片付けるのを忘れてしまい当の教師に見つけられ、往復ビンタを何回も食らって、口の中が切れた…なんてことも(苦笑。一方、色々なことをかじるクセもあり、鉄道(ブルートレイン)、一眼レフカメラ(キャノンAE-1)にも一時期嵌りました。そんな中で「旅」が自分にとってはとても価値のあるものだと感じ始め、当時の親友と、山陰や北海道に二人旅もしました。学校の勉強はまぁまぁできたので、都立の小山台高校を目指して、当時は群制度だったので14群を受けましたが、抽選で外れ田園調布高校へ。


行きたくもない高校だったので勉強に意欲は湧かず、担任教師が皆の前で「トップクラスで入学しても勉強をしないでボトムにまで落ちている生徒がいる、努力を怠らないように」…と、それは私のことだったのですが、それでも努力をする気は全くありませんでした(笑。旅は相変わらず大切な趣味で、保健体育の期末試験を放棄して、木曽へ1人旅に出たことも…。そこで一人で知らない街を歩く楽しさ、一期一会の出会いが、自由でたまらなく楽しいことを知りました。自業自得ながら保健体育は10段階で2をもらい、留年の危機に…(苦笑。中学時代から一貫して読書にハマり、特に高校時代は太宰、三島、島田雅彦などの昭和の文学をひたすら愛読しました。

 

将来は、いわゆる普通のサラリーマンにだけはなりたくないと思っていました。自分にとって価値があるのは「音楽、文学、そして旅」。経済に興味ないのに就職率がいいからと経済学部に入るようなようことはしたくなかったのです。ロック音楽を理解するために英語は結構勉強していたので、海外留学の選択肢もあったと思いますが、その頃はまだそんな発想はなく、外国語学部にでも行って将来は海外に逃げようかと思っていました(笑。フラメンコギターとかカッコイイと思っていたので「スペイン語でも勉強しようかな」と考えると、志望大学は限られていて東京外国語大学か上智大学。しかしどちらも失敗し、神奈川大学外国語学部に入学することになりました。

大学もまた不本意ながらの通学。しかし、そこで腐るくらいなら中退した方がましと考え一念発起。スペイン語だけは一生懸命勉強し、1年の春休みに単独スペインへ行くことに…。まずはマラガ市の語学学校に通い、すべてが刺激的な経験ばかりで「これからは海外でも一人で生きていける‼」という自信を持って帰国。ちょうど良いタイミングで大学の「夏休みイギリス給費語学研修生」の募集があり、即応募して合格。スペインの半年後に英国研修体験を経た時には「もう日本なんかにはいられない!」と意気揚々でした。


大学の友達との活動だけでは物足りないと思い、大学を越えたスペイン語劇のサークルに参加。外大や上智大の仲間と、ガルシア・ロルカ3大悲劇の公演をまず日本で行い、企業のスポンサーを募り、ロルカの生誕100周年に合わせてスペインのグラナダ市で3回の公演を実施して、延べ2000名以上のスペイン人が観劇。着物姿でスペイン語を話す劇が一番ウケました。結局大学4年間で、スペイン2回、イギリス1回、インド1回(40日間のバックッカーの旅)と、アルバイトでお金が溜まると旅をするというパターンを繰り返しました。就活は丁度バブル期の売り手市場だったということもあり、海外勤務志望が可能な会社を探して、当時自動車業界で一番勢いのあった三菱自動車工業に入社を決めました。


●社会人、留学時代

海外勤務を求めて日・米・伊・仏などの多様な企業を転職。

グローバル企業で得た経験とスキルは大きな自信に繋がった。


1989年4月、三菱自工の入社式に3分間遅刻したことで「いい度胸してるよな…」と上司から目をつけられ、先行きに暗雲が…(苦笑。入社直後の宴席で人事部長の挨拶「これから10年間は余計なことは考えなくていい。言われたことをやり、一般職で可愛い子も沢山採用しているから、お嫁さん探しにでも精を出すといい…」に愕然としました。当時の10年は長いし、海外勤務も期待薄なので、ここに長居は無用だと、早速次の道「MBA留学」の準備を開始しました。仕事はそこそこやっていましたが、1年目の終わりに同期で最初の海外出張の仕事が…。といってもスペインへの工場視察旅行の通訳兼世話役ですが、個人旅行ではなかなか体験できない貴重な機会となりました。


昼は仕事、夜はMBA留学試験に向けた勉強…の毎日が続きました。人生の中で一番意思を持って勉強した時期だったと思います。そして米サンダーバード国際経営大学院(Thunderbird School of global Management)に一発合格。3年働いた後、会社に辞表を提出したものの、人事部からの回答は「帰りたくなったらいつでも戻ってきなさい」と温情的な無給の休職扱いに。当時の三菱自工はまだ元気でした…。

 

1992年、英語のブラッシュアップも兼ねて入学前にミシシッピーで2カ月の語学留学へ。というのは建前で、南部のデルタ・ブルースを体感したかったのです(笑。BBキングが無名だったころに教会で一緒に演奏していたというバンドマンが毎週出演している「Club Down Under」に行くのを一番の楽しみにしていました。語学学校には何故かスウェーデン人が多く、とても親しい仲間となり、のちにお互いの国を行き来する関係になりました。その後当時ニューヨークに住んでいた姉の家を経由し、アリゾナ州のサンダーバードへ。学生寮では日本語を話すデトロイト出身のアメリカ人と同室に。彼も生涯の友となりました。

授業に付いていくのが無茶苦茶大変でしたが、日本での勉強に比べて「これが将来使えるんだ、活きるんだ」という実感があり、不思議と前向きに頑張ろうという気持ちになれました。途中交換留学制度でメキシコで1学期を受講したことも貴重な経験となりました。日本人同士で群れることはなるべく避けていましたが、試験勉強のアンチョコとか、色々と情報交換したり頼り合う必要もあり、何人かの同胞とは親しい友となしました。今でもよく会う親友の一人はこの時の日本人の仲間です。卒業後は日本に帰る選択肢はなく、アメリカで就職活動を志望。マーケティング職の外国人枠は非常に難易度が高かったのですが、ようやくAIGからオファーを貰うことができました。

 

ところがAIGに入社し、デラウェア州にて導入研修を受けた1か月後、米国ではなく東京で生保のマーケティングを担当の辞令が出たのはショックでした。仕事のヤリガイは実感しましたが、アメリカ勤務を希望していたので、不本意ながらの国内生保ビジネスに…。1年を待たないうちに、米国ギャラップ社が日本での立ち上げメンバーを探しているとの情報が入り、迷わず手を挙げました。

 

ギャラップ社の日本法人設立準備メンバー4名(米国人2、日本人2)の一人として参画。オフィス選びや会社のロゴ作りから始め、とても充実していました。主に調査プロジェクトの営業と実施を担当。自動車業界の経験があったので、当時世界1位だったゼネラル・モーターズ(GM)の大きな案件を担当しました。2年半経ったところで、GMからマネジャー・ポジションをオファーされ、社長にお願いし転職させて頂きました。ちなみにこの時のギャラップ社長は人生で出会った素晴らしいボス2人のうちの1人です。

 

GMジャパンではリサーチ・マネジャーとして勤務。キャデラック、シボレー、オペル、サーブ、サターンなどのブランドの調査を一人で担当しました。毎日が超多忙の生活でしたが、アメリカ人との仕事は楽しく充実していました。そして2年後に大きなチャンスが巡ってきました。デトロイト本社でアジア地区の戦略担当を募集していると聞き、すぐに応募。デトロイトで面接をし、本社への逆駐在が決定。留学以来の念願だった米国勤務に、思わず歓喜の声を挙げました(笑。1997年から家族を連れ、4年間ミシガン州デトロイトで勤務。この4年間が私の人生で最もチャレンジングで刺激的な時期でした。

ところが2001年9月11日、米同時多発テロ事件が発生。アメリカが変わってしまいました。色々考えましたが、GMも業績不振となったため、希望退職&帰国を選択し、ギャラップ日本支社に戻ることに…。

 

その後、ギャラップ日本支社、高級紳士服ゼニア・マーケティング部長を経て、仏シトロエン(現プジョー・シトロエン)に採用されました。フランスの企業組織というのは、アメリカとは違いとても新鮮でした。小さな組織だったので、組織作りについて、色々自由な立場で仕事を任されました。とても充実していたのですが、4年目にまたギャラップからお声が掛かり「今度は、ギャラップ・ユニバーシティを作るから…」とのこと。3回目の入社はあり得ないと思いましたが、面白そうなので、またお受けてしてまいました(苦笑。

 


▲シンガポールでワークショップ
▲シンガポールでワークショップ

●起業のキッカケ、決断の瞬間―

リーマンショックで世界の情勢変化を察知、チャンス到来。

自由を求めて独立起業「ユーダイモニアの世界」へ…。

 

3度目のギャラップ社。古巣だけにさすがにもう慣れていて、初日からクライアントへプレゼンを行いました。この時期は人気の「ストレングスファインダー(強みアセスメントプログラム)」を数多く実施しました。「このスキルがあれば独立できるな…」と、起業への意識が芽生えてきた矢先に2008年9月のリーマンショック、世界経済が大きく変化しました。そのような中で米ギャラップ社が日本支社閉鎖を決定、この時私はこれは大きなチャンスと捕らえ、独立を決意しました。海外見聞旅行や留学など自分で決めたことを着実にこなしてきたこと、そして社会人として日・米・伊・仏などグローバルな外資系企業で沢山の経験とスキルを積む機会を得てきたことなど…そんな一つ一つの蓄積から確信を持って独立起業を決めることが出来たのだと思います。

 

2009年9月、ユーダイモニア マネジメント株式会社を設立。大手企業向けに強みを活かした人材育成や組織開発、コーチングをメインに活動中ですが、お陰様で毎年売上高を伸ばしております。これは妻との約束のひとつでもありました。妻は、当時私が何でも勝手に決めることに不満を持っていたのですが、「お金で心配はかけないから」と言って強硬突破。お金で心配をかけない根拠などなかったはずですが…(苦笑。でも、不安には思っていませんでした。理由のない自信があったのか、何とかなると思っていたのです。以前の勤務先が大きなビジネスばかり狙って上手くいっていなかったので、自分は少額でもクライアントを確実に満足させるような仕事をしようと思いました。それができれば何とか食っていけるはずだと思っていたのです。

 

独立起業を果たして先ず感じたことは、とにかく上司がいない中で、純粋にクライアントの為になることだけを考え、政治抜きに仕事ができるのが嬉しくてたまらなかったことです。自由、自治、政治抜きのクライアントからの仕事内容への評価。これらはお金には代えられない大きな喜びでした。


●起業決断の瞬間、起業後のエピソード

企業向けの研修やコーチングで、クライアントから高い評価を得る。

著書「シニアの品格」上梓で、新しい領域の仕事への拡がりが…。

起業後1年目は前職時代の繋がりからお仕事を頂き順調な船出でしたが、それに胡座をかいていたため、2年目はいきなり厳しくなりました。あるクライアント様から大きな案件を受注したものの、新規受注がなく、そのクライアント様がいらっしゃらなければやっていけなかったと思います。しかし目の前の案件に全力で集中したことが幸いしたことで、次第に紹介案件が増えるようになりました。

創業期を振り返ると、私が幾多のキャリアを通して求めてきたのは「自由」であることを実感しました。それは、快楽にふけることではなく、気持ちよく仕事をし、貢献し、自分らしく人生を楽しめることです。起業当時何となく決めた社名の「ユーダイモニア」は、アリストテレスが求めた「真の幸福」という意味です。起業後数年を経て、自分が起業で実現したかったのは「ユーダイモニア」を自分、そしてクライアントの中で実現することだと分かってきました。やはり言霊というのはあるのだと思います。そして、その思いからビジネスパーソンへのコーチングに力を注ぐことになり、「シニアの品格」の出版につながりました。

 

企業向けのコーチングという仕事を通し、エリート・サラリーマンの意識と行動が次々と大きく変容するのを見て、クライアント様からの純粋な賞賛の声を頂く中、「このメソッドは世の中を変えられる!!必ず世界はよくなる‼」という仕事への自信が涌いてきたのです。そんな時に小学館からストーリー仕立てで出版してみないか?とのお話を頂きました。昔から文章を書くのが好きでしたが、スキル本的な内容にはあまり興味なく、小説的なものならチャレンジしてみたい‼と執筆に着手することに…。

 

☆「シニアの品格」のあらすじ

どこにでもいそうな「残念なシニア」東条は88歳の老人と運命的な出会いをします。

果たして東条の荒んだ心は老人によって癒されるのか?
そして本当の「シニアの品格」を手に入れるのか?
「暴走シニア」から、「人生の上級者」としての「シニア」へと変容できるのか?

シニアという言葉は「年長者」という意味で使われることが多いのですが、「シニア・マネージャー」が年齢とは関係なく「上級マネジャー」を意味するように、「人生の上級者」という意味もあります。
「シニアの品格」は、「人生の上級者」としての在り方について考えさせる内容になっています。

本書には、企業のシニア人材に求められる品格について考えるキッカケやヒントが盛り沢山です。

 

私が無名なので、爆発的なヒットとはいきませんでした。しかし読者レビューで沢山のポジティブな評価を頂いたことが素直に嬉しく、この執筆を通して、私自身が「人を幸せにする」ということの意味を少し分かってきたように感じます。これまで(特に起業前)、私は自分が幸せになることばかり考えていたのだと思いますが、これから様々なカタチで「人の幸せ」に貢献することで、真の「ユーダイモニア」に近づけるのではないかと考えています。

また、家族に対してもプライオリティを置かなかった時期があります。「家族なんて、黙っていてもついてくるもので、自分がいなければ成り立たない」と錯覚していました。これは大きな勘違い、意味のない日本人男性特有のプライドで、私を見捨てなかった妻に、心から感謝しています。

 


●今後の夢、目標‼
人生の折り返し地点、「自由・自立」は道半ば‼
「パフォーマンスの高い自由人」を生み出し、繋げることが目標。

 

このインタビュー機会を通じて、改めて自分の半生を振り返ってみると、実に破茶滅茶な生き方をしていたように見えますね(苦笑。しかし、中学高校時代におぼろげにイメージしていた「人と違う生き方、自分らしさ」を我武者羅に追求してきたことが、50歳を過ぎてようやく「私らしい幸せのカタチ」になってきた段階だと思います。今、自分に点数をつけるとしたら60点。ある程度の目標達成はして自由になっているとはいえ、まだ自分の殻に入っている部分が多々あります。次のステップでは、殻の中の自由ではなくパフォーマンスの高い自由人になると同時に、仲間を増やしたり、繋げる仕組みを作るようなことをイメージしています。

 

GM時代(デトロイト駐在中)、日本嫌いの中国人や韓国人と個人的な繋がりを作り、最終的には仲間として同じゴールに向けて仕事ができたこと、ギャラップ社が3回も入社を依頼してくれたこと…など、ユニークな私自身の実体験を糧として、新しい仕組みづくりを模索してゆきたいと思います。また嬉しいことに「シニアの品格」の韓国語版の出版が決定しましたので、グローバル展開や著書の続編も検討しております。

 

そして「シニアの品格」に関わる講演やワークショップ活動を増やし、「日本のビジネスパーソンをもっと自由にしたい」と考えています。多くの40代以降のビジネスパーソンは、心を柔軟に保つか、今のプライドにしがみつくかの分かれ道に立たされていると思います。そこで道を間違えると、それは自分を「ユーダイモニア」から遠ざけることになります。

 

怪しい自己啓発の様なのもとは違い、現実的な幸せを多くの人が手に入れることを支援する本モノのプログラムを創る。そのために、たくさん執筆をし、コーチングをし、講演を行い、10年後を目指して「日本人はプライドや自分の思い込みから解放されていて、本当に創造的な人たちだ」と海外から賞賛され、日本の若者(特に男性)がモテてしょうがない国にすることを目標にしています。現在の日本人は、女性ばかりがモテていて、非常に残念です(笑。

 

最後にこのような機会を頂いたことにとても感謝しています。「めびうすのWA」や「起業‼決断の瞬間」に登場するメンバーの方々の記事は超ユニークな生き方を実践されていてワクワクします。最近連続参加している「めびうすカフェ♪(毎週第4月曜夜開催)」も業種を超えて多様な起業家(自由で自立している素敵な方々)が集まっていて、とても楽しい学びと交流の場です。ここから何が生まれるか、全く想像できないところが実に面白いです。

 


長い文章をお読み頂き誠に有難うございました。


 ▼小屋一雄さんの座右の銘 
 『Rolling Stone gathers no moss〜転石苔むさず


イギリスのことわざで「あれこれと色々なことに手を出していては何も成就できない」という意味ですが、アメリカではむしろ、「常に活動的で新しいことにチャレンジしていればいつまでも健康的で老けこまない」という意味に取られることが多いようです。苔をどう捉えるかの違いですね。 このように、1つのことわざにも違った捉え方があり、白か黒思考では理解できないところが面白いと思います。私はORではなくANDの思考で、転がりながらもしっかりと結果を出すような生き方をしたいと考えています。 




  ●ユーダイモニア マネジメント株式会社ホームページ

   http://www.eudaimonia-mgt.com/

  ●著書「シニアの品格」特設サイト

   http://www.eudaimonia-mgt.com/book_senior.html

  ●小屋一雄さんFaceook個人アカウント

   https://www.facebook.com/kazuo.koya



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