▼起業家file.021 佐藤修(さとうおさむ)さん  フリージャーナリスト


(プロフィール概略) 

フリージャーナリスト 兼 カフェ&ゲストハウスオーナー(起業準備中) 

1963年東京都生まれ。上昇志向の強い両親のもとに生まれ、幼少時は、習いごとや進学塾で超多忙な時間を過ごす。中学は有名校を受験するも全滅し地元中学に入学。徐々にグレはじめ、ギリギリで入学できた私立男子高校も2年終了時で中退。翌年、定時制編入卒業後日大に入学。大学では遊びつつも学びと悟りがあり、'88年産経新聞社にバブル入社。営業局(広告局)配属後、事業局で多数の新規イベントを立ち上げ成功させた。そして40歳で念願の新聞記者に。産経新聞千葉総局で県警、県政、市政キャップを務め、'08年サンケイスポーツ社会面担当記者に。事件事故から政治ネタ、芸能ネタまで手掛け、“マルチ記者”としてスクープを連発。'12年9月フリージャーナリストとしての活動と、温めていたビジネスアイデアを実現するために同社を退社。現在起業準備中。


●幼少~学生時代ー
習い事に追われた幼少期。荒れに荒れた思春期

そして、前向きな生き方と新たな気づきを得た大学時代。

1963年東京世田谷生まれ。有名中高から有名大卒で、出世街道を驀進した父親と、東北・老舗旅館の娘という母親。激しい上昇志向と「ブランド」が大好きな両親は、英才教育という名のもとに、幼いころから私に習い事を強要しました。小学生の時は、「バイオリン」「習字」「絵画」「水泳」そして進学塾を2つ掛け持ちするという超多忙な時間を過ごし、子役スターさながらの分刻みスケジュールで生活していました。

 

中学は国立や“私立御三家”など有名校を受験するも、結果は全滅。「自分たちの子が公立中かっ!」と涙ぐむ両親の姿に釈然としないものを感じつつ、地元中学に入学。中学から高校にかけて、この反動でグレてしまった私は、応援団のような学生服姿にリーゼントという髪型の典型的な「ヤンキー」に(笑。当時、同級生にバイオリン演奏を披露すると「似合わねぇ~」と、腹を抱えて大笑いされる始末でした。

 

高校での実質的留年、そして一浪と、計2年のブランクを抱えて日本大学へ入学した私は、友人の紹介で、慶応大学の現役学生らが立ち上げた、マーケティングリサーチの学生ベンチャー企業でアルバイトすることになります。このアルバイトが、その後の人生に大きな影響を与えることとなりました。学生だからこそ面白がられ、かつ許されてしまうことがある・・。本来なら弱点になりかねない稚拙な部分を、この会社の社員は武器に変えてしまい、大企業相手に堂々と渡り合っていました。今振り返ると、そうするしかなかったのかもしれませんが、「不安や恐怖、至らない部分を武器にする」という逆転の発想が私の中で構築されていきました。

 

そのアルバイトで知り合った一流大の仲間たちからは、企画書作りのテクニックや企業のキーマンと上手にお付合いするツボを。そしてクライアントだった大手企業宣伝部社員の方々には、社会常識やマナーを教えていただきました。とにかく「目からうろこ」の毎日で、卑屈になったり委縮していては、何も前向きなものは生まれないのだという強気な姿勢、物おじしない行動が身についていったのです。


●サラリーマン時代ー
新聞記者になることが夢、異動願いを出し続けて約10年。

40歳でようやく念願の新聞記者に。

 

'87年ごろ、就職活動を行った大学4年時の日本経済はバブル最盛期で、就職戦線もいわゆる「売り手市場」でした。内定数を友人と競争できた良き時代でした。大手家電メーカーや建設業界、そしてマスコミを受けましたが、当時、手にした「ドキュメント新聞記者」(読売新聞大阪社会部刊)という書籍が、私の人生を変える1冊になりました。


'79年、三菱銀行北畠支店で起きた銀行強盗事件。この凶悪事件の際、新聞記者たちが現場でどのような取材活動を行ったのかという状況を描いたもので、まさに「手に汗握る」内容でした。読み終えた私は、「新聞記者になりたい」という衝動にかられ、産経新聞社に入社してしまいます。しかし神様はそうそう簡単には願いをかなえてくれませんでした。配属先が営業局(広告局)でしたので、編集局への転属希望を出せば出すほど上司に疎まれ、「オレの下にいるときに、どういうつもりで配置転換願いを出しているのか」と叱責されたこともありました。会社では年に1回、社員からの希望や要望を吸い上げるレポートの提出を求められるのですが、希望を正直に書くと怒られるわけです。やりきれない矛盾を感じていましたが、紆余曲折の末、40歳で念願の編集局に異動、つまり新聞記者になれたのでした。

以来、千葉県警、千葉県政、千葉市政を担当しましたが、特に県警担当時代は「えー、そんなことが実際に起きるの!」といった話ばかりで驚きの連続。まさに「事実は小説より奇なり」を地でいく、濃厚な時間を過ごすことができました。県警捜査員だけでなく、県政市政取材では、森田健作知事や政令指定都市の首長として史上最年少当選された熊谷俊人市長との出会いもありました。

後に東京本社に異動となり、サンケイスポーツで社会面を担当しました。スポーツ紙の記者は、独特な取材活動が求められるもので、事件事故、政治、時には芸能までカバーせねばなりません。「面白いネタならなんでもいい!」というメディアで、「社会部」「政治部」といったセクションの壁にとらわれずに活動できた約4年は、記者としての幅を大きく広げてくれる時間となりました。

新聞記者として働いていると、当たり前ですが、いろいろな人と会います。人と会って話を聞いて回るのが仕事ですから。そしてすべての人が「いい人」とは限りません。新聞記者を利用して、自らに利得のある記事を書かせてひと儲けしたい。または敵対する人物を陥れたいといったような「悪い人(悪意をもった人)」も近寄ってきます。でもこういう怪しい人たちは、必ずといっていいほどイヤ~なオーラを出しているものです。うまく説明できませんが「直感」というもので感じるのです。新聞記者という仕事は、危険なものを感じ取る感覚(眼力)も磨いてくれました。
 


●起業のキッカケ、決断ー

「新聞社の衰退」と「東日本大震災」がキッカケで

フリージャーナリストになることを決断!!

 

「会社を辞めよう」と決断したきっかけの一つは、新聞社をはじめとするマスメディアの衰退です。産経新聞社も「早期退職」といったリストラを始め、企業の一番の財産である「人」の削減を行いました。40~50代の社員がターゲットになり、続々と辞めていく同僚を見送る立場にいましたが、私がショックを受けたのは、この状況を見ていた優秀な若手記者の流出が始まったことです。さらに自由な取材活動も経費削減を理由に制限され始めたのです。

 

前述しましたが、私は大学時代のアルバイトで「不安や恐怖、至らない部分を武器にする」という逆転の発想を身につけていたものですから、「経済的には大変かもしれないけれど、フリージャーナリストになって、社会的意義のあるテーマ、自分の興味がわく現場に行って取材して回ろう」と決意しました。2011年3月に起きた「東日本大震災」後のすさまじい現場で、独自の目線で粘っこく取材したフリージャーナリストが多数でてきたことも、心を揺さぶられた要因だったと思います。

 

私が40歳で記者職に就く前に、広告やイベントセクションを経験していたことも、会社を辞めるという動機に影響しています。記者になって取材を行っていても、「ここをこうひねればもっと儲かるのになぁ」とか、「この人をタレントにしたら売れるだろうなぁ」といった発想が次から次へと湧いてきていました。日本では、フリージャーナリストという職業だけでは、生活を自立させることは困難という現実もありましたから、大好きな「記者」という仕事を継続させるためにも、起業して成功しようと思ったのです。たった一度の人生なのだから「これはイケる」と思ったビジネスアイデアすべてにトライしてみよう。やりたいと思ったことは全てやって、そして稼いでやれ!と思い、新聞記者を辞める覚悟を決めました。私にとっては「会社を辞める覚悟」」ではなく「新聞記者を辞める覚悟」という意識が強かったですね。

 


●本格起業に向けての準備ー

日常生活の中で生まれたカフェプロジェクト。

すべては人間関係のご縁に助けられてる毎日です!!

 

私は、「選択定年制」を利用し、'12年9月末日付で産経新聞社を退職しました。退職してまずやったことは、在職中にお世話になった方々を訪ね、日本中を巡ること。クルマの運転が好きな私は、北は青森から南は九州まで、取材で接点のあった方中心に押しかけ、お礼を言って歩きました。約25年の勤続を終えた自分へのご褒美と、次のステップに向かう“けじめ”の意味もありました。お陰様で日本各地で懐かしい皆さんと再会できましたし、新たな出会いも沢山ありました。

 

ですから、私が起業準備をスタートさせたのは、今年の6月ごろからです。起業アイデアの一つに、「家作(平屋の貸家)の再生」というものがあったのですが、まずはそこから手を付けました。新規入居者のいない古い平屋住宅、家作を改装、改築してカフェにし、地域活性のための情報発信基地にする。地元の大学と連携して、設計、施工は建築学部や建築学科の授業の一環でやっていただくというアイデアでした。

 

なぜこのようなアイデアが閃いたかというと、私自身が千葉市の家作に住んでいるからです。築年数の高い家作の住民は高齢化が進んでおり、入居者はお子さんに引き取られたりして、毎年のように空き家が増え続けています。セキュリティー(防犯)の問題や、「夏暑くて冬寒い」といった住宅としての性能の低さから、敬遠されがちなのでしょう。
    近年、古民家カフェがもてはやされていることを考えれば「レトロ」「回顧」といったコンセプトでの店舗展開は十分通用すると考えた私は、まず、現在住んでいる物件を紹介してくれた地元の不動産会社に相談しました。そして、空き家の取り扱いに困っていた大家さんから、破格の家賃を引き出すことに成功しました。

 

今現在の進捗状況ですが、カフェ開業時の来客用駐車場を2面(クルマ12台分)作り上げました。そして家作1軒を解体し、そこにできたスペースを中庭にしようと、整地や芝生を敷く作業に取り掛かっています。また、助成金や補助金などの創業資金支援を受けない手はありません。そういった環境を整えるため、千葉市が支援しているシェアオフィス「チバラボ」にも利用登録しました。チバラボの家賃は月1万円ですが、ネット環境も整っており、コピー、FAX、個人の郵便ロッカーも設置してくれますし、法人登記もできます。何より、チバラボに行くことで、起業を目指している“仲間”と会える。これが精神的なよりどころにもなりますし、ここで作業することによって生活のリズムもできていくと考えました。今はこのチバラボを拠点にし、企画書などの書類作成、取材原稿も打っています。助成金申請などに必要な事業計画書や法人登記は、11月までに行う予定です。

 


●今後の展開、夢、目標についてー
まずカフェ事業とゲストハウスを融合させた新しい業態開発。

フリージャーナリストとしての経済的基盤を盤石に!!

 

今後、フリージャーナリストの活動として「事件もののルポ」を1本仕上げ、今までにない斬新な手法で出版しようと計画しています。またビジネス書籍を出さないかというオファーをいただいているので、それも欲張って実現させたいですね(笑。しかしこういった活動を安心して継続させるには、経済的な裏付けが求められます。そういった意味でも地域活性化を目指した、産学連携のカフェは成功させねばなりません。とはいえ、古い平屋を利用しただけのカフェ経営では心もとなく、不安定要素が残ります。そこで、周囲にある家作の空き家物件を利用した、外国人専用のゲストハウス併設計画も新たに練っています。

7年後の東京五輪へ向け、右肩上がりに増加するであろう外国人観光客を、安価な宿泊施設「ゲストハウス」で取り込もうという戦略です。築年数の高い家作でも、そこには外国人から人気の「ENGAWA(縁側)」や「TATAMI(畳)」などの文化的価値があります。「BENJO(水洗の和式トイレ)」だって、外国人にとっては新鮮なものに映るはずです(笑。なんといっても、家作は「Japanese Traditional House」なのですから。そしてゲストハウスに宿泊した外国人がカフェで食事をしたり、お茶を飲んでくれたりすれば、店舗のイメージも自然と向上します。この相乗効果を狙いました。五輪へ向けての東京観光拠点として、”CHIBAKEN&CHIBASHI”が宿泊のメッカになれば、街のイメージも活気も底上げできると確信しています。

 

この記事を読まれた方は、あきれ返ってしまうことと思いますが、そんなとんでもなく楽しい状況になることを妄想しつつ、まずは千葉から「日本を元気にするカフェ&ゲストハウスプロジェクト」を始めますので、暖かい目で末永いご支援をよろしくお願いいたします。

 



●佐藤修、私の座右の銘  
 「未だかつて、邪は正に勝たず」

菅原道真の言葉とされています。「邪(よこしま)なものは、結局は正攻法で向かう正義には勝てない」という意味の言葉です。サラリーマン時代、組織の中にいると、どうにも納得のいかないおかしな現象が起きたりしました。どういう場面だったかは省きますが、世の中、理不尽なことがちょくちょく起きます。そんな時には短気を起こさず、この言葉を思い浮かべてしのいできましたし、今後もそうしたいと考えています。

 



 

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