▼起業家File.061 高井英子さん ㈱スカイスターツアーズ 代表取締役社長


 

旅行業一筋‼ アフリカ・南米などの超小国を100以上訪問「珍国の女王」

1973年福岡県生まれ。九産大中退後、福岡大丸を経て、叔母の経営する旅行会社へ就職。24歳の時に豪パースへ半年間ワーキングホリデー体験後、元の会社に再就職以来旅行業一筋。途中米同時多発テロで叔母の旅行会社廃業などの苦難を乗り越え、2008年知り合った旅行会社経営者から「珍国の女王」の称号を受け、珍しい国専門の旅行添乗を重ねる。2016年1月㈱スカイスターツアーズを設立し独立起業、同年10月西日本新聞の福岡ファンファンサイトの旅行コラムが著書「珍国の女王」出版へ。講演依頼も積極的に対応して、唯一無二の珍国体験ツアーの普及を目指す。


●幼少~大学時代―

読書、美術、国語、英語、世界地理…褒められて伸びるタイプ‼
バレーボールに掛けた青春時代、仲間との絆は今でも続く。

 

1973年福岡市生まれ。父は製薬会社に勤めるサラリーマン、母も事務員として働いていました。父は俳優ばりのイケメンで母にとっては自慢の夫だったようです。大学英文科卒の父が読む本はいつも英語の本で、読み聞かせの絵本も英語でした(笑。私が小学校5年生の頃から父は体調不良で働けなくなり、母は子ども3人を育てる為に仕事を3つ4つと掛け持ちし、朝から深夜まで休みなく働いていました。そんな状況でも母は辛い素振りひとつ見せず、いつも笑顔で明るく振る舞っていた印象しか残っていないのは、今思うとスゴイことだと思っています。

私は幼い頃はとにかくよく喋る子どもだったようです。朝起きてから夜寝るまでずっと喋り続け、祖父母の家に行く時も、遠くからでも私の声が聞こえてくるのですぐに「孫が来た」と分かったそうです。人懐っこい性格もあり、誰にでも抱かれ誰にでも付いていくような子どもで、初対面の人でもすぐに膝に座り、そのまま寝るということもしばしば…(笑。

小学生の頃は父の影響もあり読書が好きでした。「奇跡の人、ヘレンケラー」にとても感動し、学校の読書感想文コンクールで入賞。その後に読んだ「土佐犬物語」や「盲導犬物語」でも連続入賞。「盲導犬物語」の著者にはお手紙まで書くほどに…。特に動物関係の本が好きになり、この頃の将来の夢は「獣医師」…でも獣医師の勉強中に動物実験があると知り、それはできないと諦めました。

中学時代は、ロサンゼルスオリンピックの日本代表の女子バレー選手に憧れバレー部へ。当時のセッター、中田久美選手のようになりたいとセッター志望でしたが、残念なことにそこまで運動神経がなく断念、アタッカーとして頑張りました。練習やトレーニングがかなりハードな部活だったため、この時期に忍耐力が身に付いたと思います。勉強では美術と世界地理が大好きで、美術は先生の感性と合っていたのか色彩感覚を褒められ、3年間ずっと「5」でした。また世界地図や地球儀を使う「地名当てゲーム」は、どんなに小さな国や地名でも誰よりも早く見つけていました。
家庭では私が13歳の時に父がガンで他界してから、料理に目覚め、帰宅の遅い母の代わりに、私が弟や妹に夕食を作って食べさせていました。

高校は地元の沖学園に入学、ここでも迷わずバレーボール部へ入部。強豪校にこてんぱんにやられる弱小チームでしたが、メンバーとの絆はピカイチ。家に帰りたくないほど楽しずぎる部活動で、よく仲間の家に泊まり合いっこをしていました。全体的に見ると勉強は普通でした。ただ国語の成績がなぜかいつも異常に良く、全国模試レベルでも偏差値70以上の時も。特に古典はいつも100点に近い点数でした。また英語の先生がとても美しく英国留学経験者、その憧れの先生に英語が上手と褒められたことがキッカケで、英語に興味を持ち始めました。クラスでは留学する人もいる中、私も留学希望者の一人でした。しかし九州産業大学の女子特別推薦がもらえることに…、学校側の説得もありつつ、私も花の女子大生への憧れもあったので、大学進学を選択。

高校3年夏でバレー部を引退してすぐに先輩の所属する社会人バレーチームに入部。ほとんど社会人ばかりの中に学生が入ったので、大人の遊びや誘惑に影響される日々。大学に入学してからも「社会人バレーのお兄さん、お姉さんともっと遊びたい、もっと稼ぎたい」と思い、当時大丸の婦人服ブランドでアルバイトばかりして大学に行かなくなったので、学費がもったいないと中退を決意しました。

 


●社会人時代

叔母の旅行会社が順調に成長、豪パースへワーキングホリデーに。

米同時多発テロで旅行者激減‼経営悪化から廃業に…。

 

大学を辞めてから、社会人バレーの先輩にNTTを紹介してもらい、19歳の時に準社員として入社。NTT本体と協力会社(当時の言葉で下請け業者)の関係を円滑にし、電話工事をスムーズに完了させるための新部署に配属。NTT、協力会社、そしてお客様の間で板挟みになりながら手探りの中、上司や若手社員5人のチームで日々の問題を解決し、処理し、勉強する日々。電話工事のオーダーが多い時には、上司と現場で電話工事のお手伝いをすることもありました。特にお客様対応に関してはここでの経験が今の自分につながっています。NTTでは本当に人にも恵まれていました。

NTTで2年間の経験を積んだあと、すでに叔母が個人で旅行会社を立ち上げていたので、そこへ21歳で入社。1994年頃は格安航空チケットの絶頂期だったため、業務のほとんどは航空券販売でした。かなりの黒字を出したので、私が22歳の時に叔母が株式会社を設立して、博多駅近くのビルに移転し、大きなカウンターに旅行パンフレットも多数揃えて本格的な旅行会社へと変身しました。

 

会社の経営も安定した頃、当時の従業員さんが留学経験者で「いいな~私も行きたい!」と言ったところ「みんな私の話を聞いて、行きたいとは言うのよね。でもみんな言うだけで誰も行かないの。行きたい!って言いたいだけなのよね…」と言われ、悔しくて奮起。毎月財形で貯蓄をし、一旦休職しワーキングホリデーでオーストラリアのパースへ行きました。これが自分の意志で動き、夢の実現を果たした第一歩目です。

パースではホームステイをしながら、語学学校に3カ月間通いました。最初は英語が全く分からず、自分の英語も通じず話すことが怖くてホームステイ先でも部屋に引き籠る日々。強烈なホームシックにかかっていました。するとスティ先のお父さんが、言葉を発しない私を気遣って、ドライブに連れて行ってくれました。お父さんが毎朝のルーティーンとしている公園を散歩し海岸線をドライブし、行きつけのカフェでお父さんと同じ濃くて苦いエスプレッソを飲みながら、気遣いと優しさに涙しました。その日午前中に家に帰ると今度はお母さんが休みを取ってくれていて、今度はお母さんの実家に連れて行ってくれたのです。そこから自分が変わりました。「せっかくお金を貯めて、あんなに憧れていた海外生活を手にしたのに、このままではもったいない!人に気を遣わせてばかりで、いけない」と。この時のホームステイ先の家族には本当に救われました。

英語が分からず、授業で泣いていた私でしたが、積極的に学校のサークルにも参加し外国人にも話しかけ、友達も増えて行きました。それからは、毎日が楽しくて楽しくて。日本人、ヨーロッパ人、香港人、韓国人などのたくさんの友人に囲まれ遊びまくる日々でした。学校帰りはカフェでおしゃべり、週末はビーチ、夜はクラブ通いと忙しい日々。結局、ワーキングホリデーなのに、語学学校に通いつめ、居心地の良いホームステイ先からも動くことなく、お金がなくなり半年で帰国。それでも中身は充実し満足でした。

 

帰国してから英語を活かした仕事に就きたいと半年近く就職活動をしましたが、なかなか現実は厳しく、人手が足りていない叔母の会社へ25歳で再就職。仕事はかなり忙しく、残業も多い日々でした。人手が足りず、母も当時20年近く勤めていた保険会社を辞め、叔母の会社へ入社することに…。しかし、2001年11月あのアメリカ同時多発テロが発生。その頃は旅行会社として社員旅行や団体旅行、一般旅行を取り扱う旅行会社に成長していたのですが、その影響は甚大でした。ほとんどの人が「飛行機に乗ること」自体を恐れたため、旅行に行く人が激減し、瞬く間に業績不振に陥り、経営が悪化したのです。

 


●起業のキッカケ―

叔母が心臓病に倒れ、母が事業継承。私もストレスで体調異常に。

不思議なご縁で珍国専門旅行会社の社長との出会い…。

 

急激な経営悪化で先行き不安の中でも、従業員へのお給料や取引先への支払いのために借金は膨らむばかり…。そして取引先への借金は膨らむばかり、そして廃業に追い込まれました。その心労が祟って叔母は心臓病で倒れ緊急手術することに…。廃業後は、母が代わって個人事業として自宅開業。しかし廃業で清算できなかった借金の取り立てに追われる日々はとても辛いものでした。


同時多発テロの前に結婚が決まっていたので、延期することなく無事に結婚式を挙げることはできました。ただ、結婚してからも会社を立て直すことに必死だったため、家庭生活が崩壊していきました。仕事を一番に考えてしまう私が元夫に見限られてしまいました。

離婚後は借金返済のために、 私は別の場所で働いた方が良いと考え、時給が良いところを求めてコールセンターを転々としましたが、4つ目のコールセンターで過呼吸症候群になり、仕事が勤まらない状況となり退職。母が何とか会社を守りたいと個人で踏ん張っていた旅行の仕事に戻りました。

 

そんな時、持ち家を売買した不動産会社の担当者がとても良い方で「きちんとした形で旅行会社と契約をした方がよい」と今の親会社となる珍国専門会社の社長を紹介して下さいました。紹介とはいえ、全くの繋がりがない中で、崖っぷち寸前だった私たちに手を差し伸べてくれたのです。当時は社長が珍国添乗に行っている間、日常くらいの英語ならできるということで、現地(アフリカ等)からのメールチェックなどが主な仕事の依頼でした。事務所に来てもいいし、自分の仕事が忙しい時は在宅でもOK、更にアルバイト料もいただけるとのことで、喜んでお引き受けすることにしました。実務に携わると、昔得意だった地図当てゲームで見たような国名だったり、聞いたこともないような国や地域ばかりに行っている社長には興味深々でしたが、アフリカには興味ないし、まさか自分が行くことになろうとは微塵も思うことなく、3年の月日が流れました。

その日は突然やってきました、その社長から添乗を頼まれたのです。社長の体調が悪く「ツアーに行けない」と言うではありませんか…。さすがに今までの恩義があるので、この頼みは断り切れずに受けることにしました。珍国添乗最初の国は太平洋に浮かぶ島国「マーシャル諸島共和国」、この添乗が私の人生を大きく変えるきっかけとなりました。この旅が帰りたくないほどに本当に楽しかったのです。「ずっと大好きな海外に毎月行きまくる仕事を続けたい‼」と思いました。

 

添乗の仕事はそれまでも社員旅行や団体旅行などで国内、海外ともある程度の経験はあったつもりでしたが、珍国添乗は全く違いました。2回目からはほとんどがアフリカへの渡航・・・。直行便では行けない場所なので、とにかく乗り継ぎが多く遠いこと、日本では現地の情報収集がしにくい部分があり、観光案内が難しいこと、日本語を話す現地スタッフがいる旅行の添乗しかしたことがなかったのですが、珍国には日本語を話す人なんてほとんどいません。観光先では英語の説明を全部通訳しなければならず、特に自然、科学、歴史、宇宙まで絡む話になると理解できず、通訳できずにお客様に呆れられることも。自分の英語力の低さに愕然としました。かなり苦労もしました。英語力だけでなく、珍国で舞い上がった私は添乗員としてもひどかったです。

 

正直言って、マーシャルの添乗から2年間は失敗ばかりでした。当時にご一緒したお客様からは今でも「あなたは本当にひどかった。添乗員失格。自分中心だったしね。社長に文句言ったよ。」と言われます。珍国添乗員として本当の自覚が芽生えたのは5年目を過ぎたころでした。ある女性のお客様に「他社よりもはるかに高いお金を払ってお宅の会社のツアーに来てるんだから、もっと心に残るような添乗をして欲しい」と、これが私を本気で覚醒させた一言です。めったに行けないようなところに、心から人生を楽しむ方々(特に70から80代の方々)を案内できるこの仕事にまず誇りを持ち、お客様から「200以上ある国や地域の中で、ここへ来て良かった」と心から思っていただくツアーを作らねば!と思ったのです。

 

私が珍国添乗初心者のころのお客様には「あの時はひどかった」と笑って言われますが、最近では「成長したね。すっかりベテランになったね。頼りがいあるよ。」と言って頂けるようになりました。絶対に人を褒めない厳しい女性のお客様からも「2ミリは成長したわね」と言われ、有頂天になってしまったこともあります(笑。

  


●起業決断の瞬間、起業後のエピソード

叔母の起業から30年後の節目に新会社設立‼働きづめの母にも楽な生活を。

「珍国の女王(西日本新聞社)」出版で、講演依頼が増えました。

珍国添乗を始めて8年目に入り、気が付けば訪問国や地域(海外県など)の数は100を超えていました。また地元最大手西日本新聞社のファンファン福岡というサイトでコラムを書かせて頂いていましたが、それを出版しないかと提案がありました。著書出版がキッカケとなり、体力が落ちてきた母から会社を譲り受け、法人化したいという気持ちが膨らんで来ました。2016年1月株式会社スカイスターツアーズ設立、今まで働き詰めだった母に少しはゆっくりしてもらいたいこと、そして叔母が個人で旅行会社立ち上げてから、ちょうど30年の節目だったことも後押ししてくれました。

 

これまで色々なことがありましたが、叔母が独立開業してから30年ずっと家族で旅行会社を守ってきました。今は認知症を患い、旅行会社をしていたことさえ忘れてしまう時がある叔母ですが、私が旅行会社をしている限り、少しでも大好きだった旅行業に携わっていたことを記憶に留めておくことができるのかなと思っています。「スカイ」の文字を社名に入れたのは、叔母が最初に法人化した時の社名の一部を(DNAとして)頂きました。

 

私の父はガンで43歳の時に亡くなりました。当時私は13歳、妹は10歳、弟は7歳。子どもを育てるために母が父のように働き、叔母が母のような役目を果たしてくれていました。そんな二人にもっともっと恩返しがしたいです。

起業後は、ツアー企画や添乗業務は順調な反面、経理業務に苦戦しています(苦笑。大切な業務だとはわかっているのですが、数字入力が苦手なためエクセルの出納帳に入力するだけでもストレスを感じています。2016年10月に著書「珍国の女王」が完成しました。ただ本の内容がマニアック過ぎて、買ってくださる方は旅の上級者が多いようですが、評判は良いようです。老若男女問わず、楽しく読める本だと思います。全国の図書館にも置いてありますので、ぜひご一読くださいませ♪ お陰様で出版を機に講演依頼が増えてきました。講演内容は様々ですが、依頼主さまのご要望に沿うようひとつひとつ丁寧に実績を積み重ねています。

(珍国での珍体験)

▶アフリカに多いのですが、空港で出国するときに賄賂を払わないと出国できません(汗。パスポートを没収されること、係官によって入国許可証(ビザ)の料金が違うことも多々あります。(賄賂さえ払えば1時間以上待つような混雑した状況の場合、列の一番前にしてくれるという利点あり)

▶ホテルの部屋の中に、あり得ない大量の虫の死骸やイグアナみたいな大きなトカゲ(頭がオレンジで胴体が緑)がいることも…(笑。

▶飛行機に乗るまでの荷物検査がやたらと多い。飛行機に乗る直前で手荷物検査をされることも…(汗。

▶私のパスポートの訪問国数が多いため、麻薬の売人と疑われることが多い(笑。(執拗な荷物検査や尋問など)

▶島から島へ飛ぶような小さな飛行機は欠航が多い、理由は燃料不足など。週に1~2便しかない場合は足止めを食らいます…(苦笑。

 



●今後の夢、目標‼
珍国歴10年目「珍国の女王」という名前に恥じぬ活動を目指す‼
将来は珍国の子どもたちのビジネススクールを創りたい。

 

25歳から旅行業一筋、珍国歴も10年目、この間に色々な経験をさせて頂きました。著書を出版して「珍国の女王」の名前だけが独り歩きをしていますが、その名に恥じない旅行会社として信用信頼の基盤を固めて行きたいと思っています。現在首都圏のお客様が大半ですが、九州においても「珍国」渡航のお客様を掘り起こしたいと考えております。また珍国だけでなく、社員旅行や団体旅行、個人旅行を数多く受け、会社の業績を安定させて従業員を雇うことも目標としております。

 

そして将来の夢は、アフリカの子ども達のためのビジネススクールを創ることです。アフリカでは学校に行けず、家庭の事情でどうしても働かないと生活がやっていけない子どもが多いのが現状です。学校に通わせ、教育を受けさせることも支援の一つですが、今子どもたちがやっている仕事(物売りや靴磨きが多い)がもっと伸びるようなビジネススクールを作りたいと考えています。例えば、アフリカには観光客相手に瓶やペットボトルに入ったピーナッツを売る売り子が多いのですが、ただ単に「売る」のではなく、どうしたら「たくさん売れるのか?」「もっと高く売れるのか?」、パッケージの装飾やラッピングの方法、声のかけ方、セールスの仕方などを教えるスクールをイメージしています。

 

今、私の目標とする人は、写真家の竹沢うるまさんです。写真を撮りながら、世界100カ国以上の国を3年近くかけて旅した人。哲学的に世界を見る目をお持ちの方で、彼の「国やその場所」を見る視点や感性を見習いたいと思っております。


長い文章をお読み頂き誠に有難うございました。

 



 ▼高井英子さんの座右の銘 『初心生涯


職業柄、世界を見ることが多いのですが、旅行業界に20年以上もいるため、何もかもが「分かってる」気分になってしまいます。特に添乗として業務に就く時は、自分にとっては幾度目かの渡航でもお客様にとっては初めての場所が多いのです。
そういう時に自分自身が常に新鮮な気持ちでいる方が、その国の魅力を十分に伝えられるような気がします。良い意味で「素人っぽい玄人」でありたいです。初めてその地を訪れ感動した時のことを忘れずいたいと常々考えています。



〇㈱スカイスターツアーズHP
 http://skystartours.com/
〇西日本新聞社Fan Fun Fukuoka旅コラム「珍国の女王」
 http://fanfunfukuoka.com/queen_traveler/
○高井英子さんFaceook個人アカウント
 https://www.facebook.com/hideko.takai.7



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