▼起業家File.044塙茂さん NPO法人グラウンドワーク笠間 理事長



NPO法人グラウンドワーク笠間  地域の未来に種をまこう‼
【5月25日夜開催「第15回めびうすカフェ♪@水道橋」登壇予定。

1942年茨城県笠間市生まれ。内向的な大人しい性格でごくごく普通の幼少時代。高校卒業後日立工機㈱へ就職。いきなり資材調達部バイヤーで実践の舞台に立ち、サラリーマン戦闘モードに性格も変貌。高度成長時代を渦中で体験し、57歳で早期定年退職。1年間海外旅行、ゴルフ三昧の生活をするも再度仕事復帰。地元IT企業へ管理部長→役員→新規子会社の社長に(後にリーマンショックで辞任)。地域貢献活動に目覚めて地元の仲間と共に2012年「NPO法人グラウンドワーク笠間」設立。コミュニティカフェ、農業6次産業化、社会貢献活動を柱に4年目の活動を展開中。


●幼少~就職―
内向的な性格で恥かしがり屋、自称サユリスト(笑。

日立工機へ就職。資材部門バイヤー担当で性格改造‼

 

1942年茨城県笠間市生まれ。5才の時に両親が離婚、私は母に引き取られてその後再婚相手の養父と3人で新生活が始まる。母も養父もとっても働き者で、6畳一間からスタート後計6回の転居を経てマイホームを持つまでになりました。


(今の私からは信じられないと思いますが)小学生の頃の私は内向的な性格で人見知りする極めて大人しい子供でした。勉強は両親の頑張りを見ていたので、人一倍勉強して上位にいたと思います。


中学では「バスケットボール部」に入部しましたが、体力が続かず3日で退部。部活が終わって毎晩疲労困憊で自宅に戻り、バタンキュー状態の疲れ果てた私の寝顔を見た母親から、すぐに退部するように懇願されたからです。大切な一人息子なので、このまま部活を続けると「死んでしまう!」とでも思ったのでしょうか(苦笑。その後は部活もせず勉強もそこそこの平凡な中学生時代でした。


もともと家の生計のために高校を卒業して早く就職することを考えていたので、高校は隣町の水戸商業高校に進学。何に燃えていたという訳ではないのですが、懸命に働く両親を見ていたので無駄使いや遊びは一切しませんでした。呑気な趣味と言えば囲碁で、自称「田舎3段」程度、現在も時々友達と対局しています。その頃は映画やテレビで活躍する知的で美しい吉永小百合に理屈抜きで憧れていて、俗にいう「サユリスト」でした(笑。


高3年夏の就職時期、自宅から通える企業で、スーツよりもノーネクタイで働けるメーカーを希望。先生の推薦もあり日立工機㈱から即内定を頂きました。1961年4月入社してからも、電話をとるのも恥ずかしい位、超内向的で大人しい性格でした。ただ最初の配属先が資材部門で、取引先との折衝業務を行うバイヤーを担当したため、仕事の必要に迫られて私の性格は急激に改造されたようです。そして「負けず嫌い」の性格も加わって、同期入社の中で「昇進&昇給街道」のトップ集団を走り続けました。


▲サラリーマン戦闘モード時代の笑顔
▲サラリーマン戦闘モード時代の笑顔

●サラリーマン時代のエピソード

オリンピック景気、オイルショックなど高度経済成長時代を渦中で体験。

たくさんの成功体験、失敗体験が大きな自信と財産に繋がりました‼


入社3年目(東京オリンピック前後)に、東京の子会社へ2年限定で出向。当時「出向」という言葉は一般的でなかったため「島流し」の心境でした(苦笑。約50名の小さな会社でしたがバイヤーとしてあらゆる仕事に携わり、この時の経験が、本社に戻った時の大きな自信と財産に繋がりました。8畳一間の社宅(大森・山王)に3人相部屋の共同生活、10才位年上の先輩方と一緒で、悪事も含めて公私に渡りご指導頂きました(笑。


また1971年オイルショック当時、円高による為替差益を享受するために欧米&東南アジアから部品や材料を海外調達する仕事を担当。英語のできないバイヤーでしたが、まさに”Discount Please”だけでアジアを東奔西走、価格の安い部品を見つけても「日立品質基準」に合格せず悪戦苦闘の日々。国際調達部署ミッションの輸入目標額を達成できず苦悩したことが日立工機人生一番の苦い思い出です。性格的に「できません」と言うのが嫌で楽観的な見通しばかりを報告し続け、最終的に「大幅未達成」となった時には、帰国せずに現地で死ぬことも考えました。責任感と言うより自分自身のプライドがズタズタになり情けなくなってしまったのです。これ以降の会社への報告は、どんな状況であれ忠実な報告を貫くようになりました。


1996年54歳の時、日立工機山形に異動。総務部長、環境センター長、ISO推進責任者などを担当。実質社長の補佐役(ナンバー2)として経営の勉強をしました。総務部長の役割で、地元・山形市の行政や商工会議所・経営者協会等とのお付き合いもあり、入社以来一貫して資材部門しか知らない私にとっては勉強になることばかりでした。この頃は初めての単身赴任で頭の重しがとれ、勝手気ままな生活を危ないくらいに満喫した時期でもあります(笑。


1999年早期退職優遇制度の適用をうけ57才で退職。年金受給開始までの3年間は「毎日が日曜日」の優雅な生活を設計し、妻と一緒に欧米・アジア・オセアニア等の海外旅行でゴルフ三昧の生活を楽しみました。しかし1年以上も仕事をしないでリフレッシュしていると、不思議と仕事への意欲が沸いて来るのですね。そしてゴルフ仲間の紹介で㈱ケーシーエス(地場密着のIT企業)へ管理部長として入社。会社のためになることを躊躇なく直言し様々な改革を断行し、その後取締役・常務取締役・そしてグループ企業の社長まで経験することができました。



▲NPO設立当初のMTG風景
▲NPO設立当初のMTG風景

●起業のキッカケ決断、起業―

順風の新会社事業がリーマンショックで業績悪化、苦渋の決断。
地域貢献活動に目覚め、仲間とNPOグラウンドワーク笠間を設立。

 

その後2007年新子会社(3次元CADを駆使したエンジニアリング業務)を設立し社長に就任。2年で200人を超える企業へ成長、毎日が充実し攻めの仕事の喜びを享受していた時のことです。「リーマンショック」の波をまともにかぶりました。ホンダ・日立等から仕事の解約が相次ぎ業績が急速に悪化、社員全員を守ることは困難であると判断し、外国人社員の契約延長を解除し「解雇」の止む無きに至ったのです。社員を守れない「情けないダメダメ社長」は、責任をとって’09年5月に全ての役職を退任しました。


50歳を過ぎた頃から「地域に貢献するビジネス」への想いが芽生えてきました。利益を追求する幸せよりも、地元笠間のため、次世代のために何か恩返しをしてゆきたいという気持ちが強くなってきたのです。

丁度民主党政権下の「行政評価(事業仕訳)評価員」に地元笠間市で採用され、私も歯に衣着せぬ鋭い切り口で「ミサイル」を連発しました(笑。しかし、これは後の「NPO」設立&活動や行政への事業採択等で「大きな障害(障壁)」になっているようです。NPO設立で行政にお世話になることが分かっていれば、もう少し優しいミサイルを発射するべきであったと反省しております(笑。


この頃、地元の同じ町内会の遊び仲間3人(定年退職者)で話しているいるうちに、遊んでばかりいないで「そろそろ社会貢献のために汗をかこう‼」と意気投合。その半年程前に個人的興味から「NPO法人グラウンドワーク三島」で約1週間「インキュベーション」のセミナーを受講していたこともあり、勉強したことを地元の笠間でカタチにしたい、そして「少子高齢化社会」が加速する中で、シニア(年金生活者)が、元気なうちは若い人の重荷になるのではなく、いつまでも輝いて活躍できるステージ作りがしたいと考えるようになったのです。69才で社会貢献に舵を切る決心をしましたが、私は10年遅かったとの後悔もあります。今思うと、2011年秋に軽い「脳梗塞」に掛かった後でしたので少し無謀な決断でもありました。しかし、キザに言うと「健康よりも起業への情熱が強かった」と言えます。


2012年に「NPO法人グラウンドワーク笠間」を設立。現在3年が経過し、ようやく多様な人が「あつまり~まじわり~つながる」場が構築され、素敵な「コミュニティカフェ」になりつつあると感じています。



▲コミュニティカフェOPEN当日の記念写真
▲コミュニティカフェOPEN当日の記念写真

●起業後のエピソード―

コミュニティカフェ、農業の6次産業化を収益事業の柱に。
賛同する会員も増え基盤は確立された創業の3年間‼

 

NPO設立後1年は「仲間集めと資金作り」に苦戦しました。初年度は予算もなく事務所も持てないため、協力者の事務所を無料で借りてスタート。まずは仲間が気軽に集まれる「場」の必要性を痛感して、自分たちの事務所を持つことを決心しました。どうせ作るなら「少しでもお金を生みだせるコミュニティカフェにしよう」との考えで、補助金等の申請から着手しました。幸いにも笠間市の「まちづくり助成金」や内閣府の「被災地復興支援金」に採択され実行できることに。工事の進行に伴い、予想外の費用が嵩みましたが、NPOにとって借金はリスク大なので理事長の個人資金貸与の形としました。

仲間集めは、趣味の仲間・同級生・ビジネスパートナー等にNPOの設立趣旨と事業計画等を説明し口コミで賛同者を募りました。女性スタッフは、調理経験者や趣味の手芸を楽しみたい人等が集まりました。現在の会員数は70名で、夫婦での参加者が約50%を占めております。また、NPOの広報活動、ホームページ・フェースブック等を駆使しての人脈作り、現在も「抱き付ける物なら〔女性以外(笑〕電信柱にでも抱き付く」パラサイトのスタンスで活動しています。

現在、3つの柱で事業展開しております・・・

◇「コミュニティカフェ」の運営は、“ほっとする和みのカフェ“として「おしゃべりサロン」的に多様な世代が気軽に集まる基盤が確立されつつあります。

◇「農業の6次産業化」の取組みは、PRと成果がアンマッチで忸怩たる思いがあります。笠間で若者が新規就農し「恋をして子育てをして老後の安定が見える」所謂「農業の勝利の方程式」の成功モデル作りに邁進したいと考えています。このために、茨城大学の農業サークル「のらボーイ&のらガール」との協働を合意し近々スタートをきります。先ずは「カフェ」で使う食材の自給率80%を目指します。

◇「社会貢献活動」の推進は、引き続き、笠間市の「まちおこし」への貢献活動・少女サッカーチーム支援・海外の学校建設等の活動に取組んでいきます。


▲皆で汗をかこう‼ 農作業時のスナップ
▲皆で汗をかこう‼ 農作業時のスナップ

●今後の活動、目標ー

設立4年目から新しい枠組みで躍進期を目指します‼
タテ(多世代)とヨコ(首都圏、世界)の刺激で活動の充実を。

 

NPO設立3年が経過し「黎明期」から「躍進期」にシフトする時期にきています。NPOを長期に発展&持続&継承するためには、シニアだけでなく多世代がかかわるNPOにチェンジすることが必須であると考えています。また、地元・笠間市だけに特化しないで首都圏や海外からも幅広い仲間がつながるNPOにしたいと念願しています。

 

またスタッフのモチベーションを持続し高めるためのポイントは、①社会貢献活動に参画しているプライドの持続 ②汗を流した量に見合った報酬の確保 ③成功体験の積み重ね にあると確信しております。いかに美しい考え方でNPOに参加した人でも「無報酬」の長期化は深層心理的に不平や不満になります。このためにも、収益確保に拘ったNPO運営が不可欠であり「大きな事業展開&大きな収益確保&大きな社会貢献」を目指したいと考えます。シニアは「年金+3~5万円」、若い方は「自立可能な報酬」を払えるように収益体質の強化に取組むことが“焦眉の急”です。

ありがたいことに、最近「グラウンドワーク笠間」の取組みに賛同する人たちが多くなってきました。とくに学生や20代の若手人財です。笠間近郊でも「給料よりもヤリガイのある仕事」を選択する若者が増えてきていることは、とても喜ばしいことです。タテヨコ(多世代×地域連携)に「まじわり~つながる」ためにも、彼らが「自立」できる事業の推進が急務です。長文をお読み頂き有難うございました。皆さまからの色々なご指導や活動アイデアを頂けましたら幸いです。



▲ゴルフはいつも奥様と一緒に。
▲ゴルフはいつも奥様と一緒に。

 

▼塙茂さんの座右の銘

恕(じょ)

子貢(しこう)=「先生、たった一語で一生それを守っておれば間違いのない人生が送れる、そういう言葉がありますか?」
孔子=「それは、恕(じょ)かな(其恕可)」と答える。

⇒自分がされたくないことは人にはしてはならない、それが恕だ、と孔子は説いた。

スタートしなければゴールなし

100M競技の「ウサイン・ボルト」や「桐生祥秀」でも、スタートしなければ絶対にゴールインできない。一方「のろまな亀」でもスタートすれば、時間は要すがゴールインできる。

〇NPO法人グラウンドワーク笠間 http://gw-kasama.com/

〇塙茂FB個人ID  https://www.facebook.com/shigeru.hanawa



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