元プロ野球選手、ジュニアからオールジャパンまで幅広い世代の野球指導者。
【10月25日(日)連合三田会大会「江藤元野球部監督講演会」開催予定】
1942年熊本県山鹿市生まれ、四人兄弟の三男として誕生。長兄は元プロ野球選手、野球殿堂入りした愼一氏。中京商業高校で1961年甲子園春夏連続出場。慶應義塾大学文学部に進学し東京六大学リーグで3度優勝。’63年全日本選手権大会では日本一に輝く。’65年ドラフト元年、読売巨人軍に指名。'69年中日に移籍し「代打の切り札」として活躍、’76年引退。以降、巨人・ロッテ・横浜でコーチ歴任のほかNPOジャパンベースボールアカデミーを主宰し全国のアマチュア野球指導に注力。’09年から慶應義塾大学野球部監督に就任し3度のリーグ優勝。現在は「野球界のレベル向上に貢献したい‼」と「野球指導」に全力を注ぎ「野球教室」も本格スタート‼
●幼少~高校時代―
父親・兄の背中を見て、野球人生はスタート。甲子園春夏連続出場も…。
そしてビリギャル風(ビリ男?)猛勉強で、慶應義塾大学に合格‼
野球は、父親の影響で始めました。父親は会社員でしたが、戦前に社会人野球の八幡製鐵の選手でもあり、無類の野球好きで野球三昧の日々でした。子供心にもその印象が強かったのでしょう、大きくなったら野球をやるのだと自然に思っていました。幼稚園児の頃から野球を初めましたが、父とキャッチボールをした記憶はなく、直接指導を受けたのは、父が監督を務めていた中学校の野球部員になってからのことです。
4人兄弟で、長男が愼一、二男・賢二は起業して事業家になり、三男が私、四男・俊介は川崎市の教員になり、退職後も絵画を教えていて、皆それぞれの道を歩んでおります。兄愼一は激しい気性、感情を表に出す人間でしたが、私は温厚と言われ内に闘志を秘めるタイプでした。でも心の中ではギラギラに燃えたぎっていましたね(笑。奔放で家を野球のために空けがちな父の代わりに、母は本当に良く家族を支えてくれました。当時男4人の食べ盛りをお腹一杯にさせるのは、本当に大変なことだったと思います。
地元の熊本商業高校に進学しましたが、兄が中日ドラゴンズに入団したことから、一家で名古屋市内に転居、私は甲子園常連校の中京商業に転校しました。すぐにレギュラー入りして1961年の春の選抜1回戦は小倉工業に惜敗。主将を務めた夏の大会では、優勝した尾崎行雄を擁する浪商に準々決勝で完封負け、この時は実に悔しかったですね。今でも、あの試合は忘れることが出来ません。年間の練習試合を含めての戦績は68勝2敗、結局負けたのはこの春夏の甲子園だけだったのです。
その後、野球を続けたくて兄の推薦で明治大学に進学するつもりでした。しかし、3年の夏の甲子園終了後、慶應義塾大学硬式野球部の当時の前田祐吉監督が、突然、中京商業まで出向いてくださり、慶應進学を強く勧めてくださいました。しかし同大には推薦制度が無く、死ぬ気で勉強するしかありませんでした。今だから言えることですが、学校を休んで受験勉強に没頭することを、先生が認めてくださっていたのです。そのお陰で奇跡的に慶應義塾大学文学部に合格‼ 今風に言えば、”ビリギャル”ならぬ”元祖ビリ男”でしょうか(笑。めでたくあの憧れのグレーのユニフォームを着れることになったのです。
●大学時代ー
輝く大学時代。リーグ優勝3回、4季連続ベストナイン。アジア選手権優勝、MVP獲得。正直天狗になってました…(汗。
自分の球歴の中で1番輝かしかったのは、慶應義塾大学体育会硬式野球部での現役時代です。3年生の春季リーグから、二塁手として、レギュラーポジションを獲得。東京6大学野球リーグで3回優勝、1964年からセカンドで4季連続でベストナインを獲得しました。当時は、恐いもの知らずで、かなり天狗になっている自分がいましたね(苦笑。
大学時代で一番印象に残っている試合は、3年生の時、エース渡辺泰輔の完全試合です。’64年春季リーグ戦の対立教大で、東京6大学野球史上初の完全試合を達成‼(慶大 1-0 立大)。当時の立教は土井選手らがいてとても強いチームでした。天然芝でしたし、ゴロが飛んでくると、イレギュラーバウンドしないか、ひやひやしながら守り、ものすごい集中力で試合にのぞんでいたことを、昨日のことのように覚えています。また自分の一発で思い出深いのは、4年春の立教戦に放った逆転サヨナラホームランです。
65年にマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会には、東京6大学選抜チームの日本代表として出場。優勝に貢献しMVPも獲得しました。同期には、中日に進んだ広野功氏がいます。彼も日本学生野球協会から認定を受け、学生野球指導者資格を回復して、自分と同じように、現在アマチュア野球の指導に尽力しています。頼もしい同志です。
●プロ野球選手時代―
「"女神"呼ぶ代打男・江藤」バット1本に賭けたプロ人生。兄弟ホームラン競演が、最も思い出に残るシーンです‼
1965年プロ野球ドラフト元年、一期生に当たります。当時、ドラフトというものが何かも良くわかりませんでしたが、ノンプロ数球団からお誘いもいただいていたので、プロから指名されなければ、そのまま実業団で野球を続けようと考えていました。しかしお陰さまで、読売巨人軍から3位指名され、迷わず巨人にお世話になることに…。
巨人に在籍したのは3年間、V9時代の2〜4年目でした。プロデビュー戦で華々しく2安打放ち、しばらくスタメンで起用され興奮する日々が続きました。内野を見回すと1塁には王貞治さん、3塁には長嶋茂雄さん、ショートには広岡達郎さんが守っていたのですから…。でも、守備では土井正三さんという絶対的二塁手がいましたので、結局かないませんでした。打撃では負けていなかったのですけどね(苦笑。
1969年兄の在籍する中日ドラゴンズに移籍。しかしここでも二塁手には高木守道さんがいて、レギュラーポジションは獲れませんでした。ならば、バット1本で勝負してやろうと「代打の切り札」を目指したのです。当時の新聞には次のような見出しが…「"女神"呼ぶ代打男・江藤」「代打江藤また快打」「打てばヒット、代打10割」などなど、いやぁ嬉しかったですねぇ。中でも忘れられないひと振りは、1973年川崎球場での兄・愼一との競演アーチです(写真)。
兄は、現役中に3回首位打者を獲得。長兄でしたから、その稼ぎで3人の弟たちを大学に行かせてくれました。残念ながら2008年に亡くなり、私が再度慶應のユニフォームを着て優勝した姿は見てもらえませんでしたが…少し脱線しました。
その後も、私は代打に命を賭け、1972年には通算打率3割に。しかし76年に心身共に限界を感じ、引退を選択しました。
●コーチ時代、起業のキッカケ―
「ホメて伸ばす!」米コーチ留学で大きな衝撃‼
新しい指導体系でプロからアマチュア野球指導の世界へ…。
1981年大学先輩の巨人軍藤田元司監督(当時)の要請で、一軍内野守備コーチとして、ジャイアンツに復帰しました。83年まで藤田体制、84年は王貞治監督の下で指導し、85年からは米国ドジャース(1Aベーカースフィールドドジャース)へコーチ留学させて頂きました。アメリカ式指導法は、すべてが目からウロコでした。
とにかく「選手の自主性を重んじる」「ホメて伸ばす」など長所や得意なところを、どんどん伸ばしてやるのです。「ミスをするな」なんて絶対言わない。私自身の指導者としての意識が、アメリカ体験で大きく変わりましたね。その後の選手指導に大変貴重な経験となりました。
90~92年、再び藤田監督に請われ、巨人軍守備コーチ、95年、千葉ロッテでバレンタイン監督、96年江尻亮監督のもと、コーチ、ヘッドコーチを経て、代理監督も務めました。99年にはJOC(日本オリンピック委員会)コーチとして、シドニー五輪を目指し、初めてアマチュア選手を含めて指導しました。やはり、国の威信をかけて戦うオリンピックは特別だと感じました。2003年山下大輔監督からお声がかかり、横浜ベイスターズ(現Dena)ヘッドコーチ、二軍監督に就任しました。
その後大きな転機が訪れます。プロ野球の指導で培ってきた私の指導方法をアマチュア野球に‼という依頼が増えてきたのです。そこで05年NPO法人ジャパンベースボールアカデミーを設立し、全国の野球少年や、指導者に恵まれない野球人たちを対象に野球教室を開催することに…。元西武の松沼兄弟や鈴木康友氏など私の指導方法に賛同するコーチ陣と共に全国で野球教室を展開しました。2007年からは、私の指導方法をもっと普及するために、様々な指導書創り(書籍化)に取り組むことにも注力、今でも全国のアマチュア野球指導者に活用して頂いています。また、社会人クラブチーム「横浜ベーブルース」を結成し監督に就任するなど、幅広い世代への野球指導に取り組むようになりました。
▶野球指導書籍の紹介(ほんの一部です)。
●大学野球監督時代ー
監督就任は、慎重に熟慮の末にお引き受けすることに…。
最初のシーズンに優勝、とにかく嬉しかったですね。
2009年秋のシーズンが終了後、母校である慶應義塾大学硬式野球部の監督要請が来ました。まさか、自分がと思いましたね。一度は、お断りしました。学生野球とプロ出身の自分は、やはり一線を画した方が良いと、当時はそう考えていましたから。しかし二回目のお話が来たのです。恐らく皆さんで色々検討されたのでしょう。その上で「もう一度、考えてみてくれないか」という、お話でしたから、お応えしなければ男がすたると(笑。この頃は王貞治さんがおっしゃっていた「野球人として、野球界のレベルアップに努める」という言葉に強く賛同する想いが増して来てもいましたから…。とはいえ、慶應義塾初のプロ野球出身監督でしたから、プレッシャーが無い訳ではありませんでした。
そして監督就任直後、出来る事からやろう‼と「1000本スイング」を導入、基礎の基礎です。最初は反対する声もありましたが「とにかく、やってみましょうよ‼」と前向きな選手の協力もあり、選手全員が取り組むようになったのです。漫然と振れば数10分で終わってしまうものを、色々な場面を想定しながらジックリ振ると2時間以上掛かります。徐々に皆の野球に取り組む姿勢や意識が変わっていきました。
そうこうして作り上げた就任1年目のチームは2010年春のリーグで、11季ぶり32度目の優勝に輝きました。この優勝が1番嬉しかったです。斉藤祐樹投手らドラフト1位指名3投手を相手に、天王山慶早戦を制した勝利は格別でしたね。男泣きしてしまいました。優勝後、尊敬する王貞治さんからも一番に祝福の電話を頂き本当に感激しました。そして翌年春も優勝、さらに2014年春のリーグで後任の竹内秀夫監督が病床にあったため、助監督の立場で指揮を取り、優勝しました。竹内さんにもいい報告が出来て、嬉しかったです。とにかく、負けても選手たちを責めないこと。「明日、勝てばいいじゃないか?!」その精神でしたね。負け試合の後でも「まあ、風呂にでも、入ってこいや」ってね。選手たちも、最初は驚いていましたが、自ら上手な気持ちの切り替えを実践するように、精神的にも成長していきました。
●今後の夢、目標ー
私は生涯現役で野球指導を続けていくつもりです‼
子供たちの可能性は無限大、それを伸ばすのが私たち指導者の役目。
慶應の監督を任期満了で辞してからも、ずっと野球の指導を続けています。この夏も8月8日〜10日に「江藤省三野球教室(主催・千葉日報社など)」を開催予定です。100人の中学生を対象に、スムーズに軟式から硬式野球に移行させたいですね。怪我も防ぐために、正しい練習の仕方を教えます。
実は、高校生の指導もしています。少し前までは、都立日比谷高校、今は千葉県立泉高校野球部にお邪魔して、教えています。全くのボランティアです。たまたま、同校の近くを通りかかったことがご縁でした。部員は、たった11人です。プレーはまだまだぎこちないですが、スポンジが水を吸収するように、私のアドバイスが彼らに沁みていきます。1974年に春の選抜大会で準優勝した"池田高校さわやかイレブン”を彷彿させますよね(笑。
子供たちには未来があります。長い間、野球を楽しむ可能性があり、楽しんで欲しいのです。その可能性を、大切に育てるのが、指導者の役目であり責任です。またその素質・可能性を彼らの中に発見するたびに新たな感動があり、私自身への大きな刺激となっています。だから、野球は一生やめることは出来ません‼
(取材執筆協力:神津伸子)
▼江藤省三さんの座右の銘
『教学半(教うるは学ぶの半ばたり)』
他人に教えるということは、半ば自分も学んでいるということ。新たな発見や感動は自身の更なる成長に繋がる。
江藤省三公式ホームページ http://etoshozo.jimdo.com
▶日本経済新聞でコラム「スポーツトピア」連載を月1回担当。
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